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韓非子 / 解老第二十

故以理觀之:事大衆而數揺之,則少成功;藏大器而數徒之,則多敗傷;烹小鮮而數撓之,則賊其澤;治大國而數變法,則民苦之。是以有道之君貴静,不重變法。故曰:「治大國者若烹小鮮。」人處疾則貴醫,有禍則畏鬼。聖人在上,則民少欲;民少欲,則血氣治而舉動理;舉動理,則少禍害。夫内無痤疽癉痔之害,而外無刑罰法誅之禍者,其輕恬鬼也甚。故曰:「以道莅天下,其鬼不神。」治世之民,不與鬼神相害也。故曰:「非其鬼不神也,其神不傷人也。」鬼祟也疾人之謂鬼傷人,人逐除之之謂人傷鬼也。民犯法令之謂民傷上,上刑戮民之謂上傷民。民不犯法,則上亦不行刑,上不行刑之謂上不傷人。故曰:「聖人亦不傷民。」上不與民相害,而人不與鬼相傷,故曰:「兩不相傷。」民不敢犯法,則上内不用刑罰,而外不事利其産業。上内不用刑罰,而外不事利其産業,則民蕃息。民蕃息而畜積盛。民蕃息而畜積盛之謂有德。凡所謂崇者,魂魄去而精神亂,精神亂則無德。鬼不祟人則魂魄不去,魂魄不去而精神不亂,精神不亂之謂有德。上盛畜積而鬼不亂其精神,則德盡在於民矣。故曰:「兩不相傷,則德交歸焉。」言其德上下交盛而俱歸於民也。

新字:故以理観之:事大衆而数揺之,則少成功;蔵大器而数徒之,則多敗傷;烹小鮮而数撓之,則賊其沢;治大国而数変法,則民苦之。是以有道之君貴静,不重変法。故曰:「治大国者若烹小鮮。」人処疾則貴医,有禍則畏鬼。聖人在上,則民少欲;民少欲,則血気治而舉動理;舉動理,則少禍害。夫内無痤疽癉痔之害,而外無刑罰法誅之禍者,其軽恬鬼也甚。故曰:「以道莅天下,其鬼不神。」治世之民,不与鬼神相害也。故曰:「非其鬼不神也,其神不傷人也。」鬼祟也疾人之謂鬼傷人,人逐除之之謂人傷鬼也。民犯法令之謂民傷上,上刑戮民之謂上傷民。民不犯法,則上亦不行刑,上不行刑之謂上不傷人。故曰:「聖人亦不傷民。」上不与民相害,而人不与鬼相傷,故曰:「両不相傷。」民不敢犯法,則上内不用刑罰,而外不事利其産業。上内不用刑罰,而外不事利其産業,則民蕃息。民蕃息而畜積盛。民蕃息而畜積盛之謂有徳。凡所謂崇者,魂魄去而精神乱,精神乱則無徳。鬼不祟人則魂魄不去,魂魄不去而精神不乱,精神不乱之謂有徳。上盛畜積而鬼不乱其精神,則徳尽在於民矣。故曰:「両不相傷,則徳交帰焉。」言其徳上下交盛而倶帰於民也。

書き下し

故に理を以て之を観れば、大衆を事として数々之を揺らせば、則ち功を成すこと少なし。大器を蔵して数々之を徒せば、則ち敗傷すること多し。小鮮を烹て数々之を撓せば、則ち其の沢を賊ふ。大国を治めて数々法を変ずれば、則ち民之に苦しむ。是を以て有道の君は静を貴びて、法を変ずることを重んぜず。故に曰く、「大国を治むる者は小鮮を烹るが若し」と。人は疾に処れば医を貴び、禍有れば鬼を畏る。聖人上に在れば、則ち民欲少なし。民欲少なければ、則ち血気治まりて挙動理あり。挙動理あれば、則ち禍害少なし。夫れ内に痤疽癉痔の害無くして、外に刑罰法誅の禍無き者は、其の鬼を軽恬すること甚だし。故に曰く、「道を以て天下に莅めば、其の鬼神ならず」と。治世の民は、鬼神と相害せず。故に曰く、「其の鬼神ならざるに非ざるなり、其の神人を傷つけざるなり」と。鬼祟りて人を疾ましむる、之を鬼人を傷つくと謂ふ。人之を逐除する、之を人鬼を傷つくと謂ふなり。民法令を犯す、之を民上を傷つくと謂ふ。上民を刑戮する、之を上民を傷つくと謂ふ。民法を犯さざれば、則ち上も亦刑を行はず。上刑を行はざる、之を上人を傷つけずと謂ふ。故に曰く、「聖人も亦民を傷つけず」と。上民と相害せず、而して人鬼と相傷つけず。故に曰く、「両ながら相傷つけず」と。民敢へて法を犯さざれば、則ち上内は刑罰を用ゐずして、外は其の産業を利することを事とせず。上内は刑罰を用ゐずして、外は其の産業を利することを事とせざれば、則ち民蕃息す。民蕃息して畜積盛んなり。民蕃息して畜積盛んなる、之を徳有りと謂ふ。凡そ所謂崇とは、魂魄去りて精神乱るるなり。精神乱るれば則ち徳無し。鬼人に祟らざれば則ち魂魄去らず。魂魄去らずして精神乱れず。精神乱れざる、之を徳有りと謂ふ。上畜積を盛んにして鬼其の精神を乱さざれば、則ち徳尽く民に在り。故に曰く、「両ながら相傷つけざれば、則ち徳交々帰す」と。其の徳上下交々盛んにして倶に民に帰するを言ふなり。

現代語訳

だから道理によってこれを見れば、多くの人を使いながらたびたび動揺させれば、功を成すことは少ない。大きな器をしまっておきながらたびたび移せば、壊れたり傷ついたりすることが多い。小魚を煮ながらたびたびかき混ぜれば、その身の艶を損なう。大国を治めながらたびたび法を変えれば、民はそれに苦しむ。だから道を心得た君主は静けさを尊び、法を変えることを重んじない。だから「大国を治めるのは、小魚を煮るようなものだ」と言うのである。人は病気になれば医者を尊び、禍があれば鬼(死者の霊)を恐れる。聖人が上にいれば民の欲は少ない。民の欲が少なければ、血気は整い、行動は道理にかなう。行動が道理にかなえば、禍や害は少ない。内には腫れものや悪性のできもの、熱病や痔の害がなく、外には刑罰や処刑の禍がない者は、鬼をまったく気にかけない。だから「道によって天下に臨めば、その鬼は霊力を振るわない」と言うのである。治まった世の民は、鬼神と害し合わない。だから「その鬼に霊力がないのではない、その霊力が人を傷つけないのである」と言うのである。鬼がたたって人を病ませること、これを鬼が人を傷つけるという。人が鬼を追い払うこと、これを人が鬼を傷つけるという。民が法令を犯すこと、これを民が上を傷つけるという。上が民を刑罰にかけること、これを上が民を傷つけるという。民が法を犯さなければ、上もまた刑を行わない。上が刑を行わないこと、これを上が人を傷つけないという。だから「聖人もまた民を傷つけない」と言うのである。上は民と害し合わず、人は鬼と傷つけ合わない。だから「両者とも傷つけ合わない」と言うのである。民があえて法を犯さなければ、上は内では刑罰を用いず、外では民の産業から利を取ろうとしない。上が内では刑罰を用いず、外では民の産業から利を取ろうとしなければ、民は増え栄える。民が増え栄えれば、蓄えは豊かになる。民が増え栄え蓄えが豊かになること、これを徳があるという。およそいわゆる「たたり」とは、魂が抜け去って精神が乱れることである。精神が乱れれば徳はない。鬼が人にたたらなければ魂は去らない。魂が去らなければ精神は乱れない。精神が乱れないこと、これを徳があるという。上が蓄えを豊かにし、鬼がその精神を乱さなければ、徳はすべて民のもとにある。だから「両者とも傷つけ合わなければ、徳はこもごも帰する」と言うのである。これは、その徳が上下ともに盛んになって、ともに民に帰することを言っているのである。

解説

『老子』第六十章「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」を注釈した一節です。小魚を煮るときにかき混ぜすぎると身が崩れるように、大国を治めるのに法を頻繁に変えれば民が苦しむ、と韓非は解きます。法家らしく、法の安定性を重んじる読み方です。後半では、鬼神が人を傷つけないのは霊力がないからではなく、民が欲少なく道理にかなった暮らしをしているからだとし、民が法を犯さなければ君主も刑を用いず、上下が傷つけ合わないとき徳が民に帰すると説きます。組織でも、制度や方針を頻繁に変えれば現場は疲弊します。改革は必要でも、変えすぎないことの価値もまた大きいのです。

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