格言聯璧 / 悖凶類・分陰寸晷も倍々舒長なるを覺ゆ
荊棘滿野,而望收嘉禾者愚。 私念滿胸,而欲求福應者悖。 莊敬非但日強也,凝心靜氣,覺分陰寸晷,倍自舒長。安肆非但曰偷也,意縱神馳,雖累月經年,亦形迅駛。自家過惡自家省,待禍敗時,省已遲矣。
新字:荊棘満野,而望収嘉禾者愚。 私念満胸,而欲求福応者悖。 荘敬非但日強也,凝心静気,覚分陰寸晷,倍自舒長。安肆非但曰偸也,意縦神馳,雖累月経年,亦形迅駛。自家過悪自家省,待禍敗時,省已遅矣。
書き下し
荊棘野に滿ちて、嘉禾を收めんことを望む者は愚なり。 私念胸に滿ちて、福應を求めんと欲する者は悖る。 莊敬は但だ日に強きのみに非ざるなり、心を凝らし氣を靜むれば、分陰寸晷も、倍々自ら舒長なるを覺ゆ。安肆は但だ曰に偷むのみに非ざるなり、意縱にして神馳すれば、累月經年と雖も、亦た迅駛なるを形はす。自家の過惡は自家省みよ、禍敗の時を待ちては、省みること已に遲し。
現代語訳
いばらが野にはびこっているのに、立派な稲の収穫を望む者は愚かです。 私心が胸にいっぱいなのに、福の報いを求めようとする者は道にはずれています。 慎み敬うことは、日ごとに強くなるというだけではありません。心を集中させ気を静めれば、わずかな時間でさえ、ずっと長くゆったりと感じられます。気ままに安逸をむさぼることは、日ごとに怠惰になるというだけではありません。心が放縦になり精神がさまよえば、何か月、何年を重ねても、あっという間に過ぎ去ったように感じられます。自分の過ちや悪は自分で反省しなさい。災いや失敗が起きてからでは、反省してももう遅いのです。
解説
最初の対句は、いばらの野と私念の胸を重ね、蒔いた種と違う実りを望む愚かさを説きます。次の句は『礼記』表記の「君子は莊敬にして日に強く、安肆にして日に偷む」を踏まえ、そこに時間の感じ方という新しい視点を加えています。慎んで心を集中していれば短い時間も長く豊かに感じられ、だらけていれば長い年月もあっという間に過ぎてしまうというのです。分陰寸晷はごくわずかな時間のことです。原文の「曰偷」は、典拠からみて「日偷」の誤りと思われます。最後の句は次の単位の病痛の句と対になり、過ちは災いが来る前に自分で省みよと説きます。時間が足りないと感じるとき、まず心の散らかり具合を点検してみる価値があります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
荘敬時間反省修身私心
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