格言聯璧 / 惠吉類・身家を保つの念を移して百姓を保つ
移養小人之祿以養君子,則國治。 移輸和戎之貲以輸軍國,則兵足。 移保身家之念以保百姓,則民安。 做大官底,是一樣家數。 做好人底,是一樣家數。
新字:移養小人之禄以養君子,則国治。 移輸和戎之貲以輸軍国,則兵足。 移保身家之念以保百姓,則民安。 做大官底,是一様家数。 做好人底,是一様家数。
書き下し
小人を養ふの祿を移して以て君子を養へば、則ち國治まる。 和戎に輸るの貲を移して以て軍國に輸れば、則ち兵足る。 身家を保つの念を移して以て百姓を保てば、則ち民安し。 大官と做る底は、是れ一樣の家數なり。 好人と做る底は、是れ一樣の家數なり。
現代語訳
小人を養う俸禄を移して君子を養えば、国は治まります。 異民族との和睦のために差し出す財を移して国の軍備に回せば、兵は足ります。 自分の身と家を守ろうとする思いを移して民を守れば、民は安らかになります。 大官になる者には、大官になる者のやり方があります。 善い人になる者には、善い人になる者のやり方があります。
解説
前の二つの単位から続いた「移」の列挙の結びで、個人の修養から国家の政治へと話が広がっています。和戎は周辺の異民族と和睦することで、宋代以来、財貨を送って和を買う政策がしばしば批判されてきました。その財を自国の軍備に回せば兵は足りる、というのです。三行目は、役人が我が身と家を守る思いを民に向け替えれば民は安らぐと述べ、從政類の教えとも響き合います。後の二行は次の単位の「潛居盡可以為善」に続く句で、大官と好人とでは道のりが別だと言います。家數は流儀、やり方のことです。出世の道と善人の道は同じではない、と割り切ることで、かえって迷いが減ることもあります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
治政愛民転換人材処世
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