格言聯璧 / 惠吉類・正心は即ち是れ神
人心一念之正,而神在其中焉。 因而鑒察之,呵護之,上至於父母,下至於兒孫,必致其福而後已。 故正心即是神,神與神相親,又何疑乎!
新字:人心一念之正,而神在其中焉。 因而鑒察之,呵護之,上至於父母,下至於児孫,必致其福而後已。 故正心即是神,神与神相親,又何疑乎!
書き下し
人心一念の正しければ、而ち神其の中に在り。 因りて之を鑒察し、之を呵護し、上は父母に至り、下は兒孫に至るまで、必ず其の福を致して而る後に已む。 故に正心は即ち是れ神なり、神と神と相親しむ、又何ぞ疑はんや。
現代語訳
人の心に一つでも正しい思いが起これば、神がその中に宿ります。 そしてその人を見守り、かばい守って、上は父母から下は子や孫にまで、必ず福をもたらしてからでなければやめません。 だから正しい心こそが神なのです。神と神とが親しみ合うのですから、何を疑うことがあるでしょうか。
解説
前の単位の「邪心即是鬼」と対をなす一則で、今度は正しい心の側を描きます。構文はほぼ同じで、邪が正に、鬼が神に、欺侮・播弄が鑒察・呵護に、禍が福に入れ替わっています。呵護は大切に守ることです。前の単位では禍が本人の昼夜に現れましたが、ここでは福が父母から子孫にまで及ぶとされ、正しい心の広がりの大きさが強調されています。結びの「正心即是神」は、神もまた外にあるのではなく、正しい心そのものだという考えです。気持ちが整っているときは、人とのめぐり合わせまでよくなるように感じることがあります。その感覚を言葉にした一則と言えるでしょう。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
正心心鬼神積徳子孫
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