格言聯璧 / 惠吉類・邪心は即ち是れ鬼
人心一念之邪,而鬼在其中焉;因而欺侮之,播弄之,晝見於形像,夜見於夢魂,必釀其禍而後已。 故邪心即是鬼,鬼與鬼相應,又何怪乎!
新字:人心一念之邪,而鬼在其中焉;因而欺侮之,播弄之,昼見於形像,夜見於夢魂,必醸其禍而後已。 故邪心即是鬼,鬼与鬼相応,又何怪乎!
書き下し
人心一念の邪なれば、而ち鬼其の中に在り。因りて之を欺侮し、之を播弄し、晝は形像に見れ、夜は夢魂に見れ、必ず其の禍を釀して而る後に已む。 故に邪心は即ち是れ鬼なり、鬼と鬼と相應ず、又何ぞ怪しまんや。
現代語訳
人の心に一つでも邪な思いが起これば、鬼がその中に入り込みます。そしてその人を侮り、もてあそび、昼は姿となって現れ、夜は夢の中に現れて、必ず災いを醸してからでなければやめません。 だから邪な心こそが鬼なのです。鬼と鬼とが呼応するのですから、何の不思議があるでしょうか。
解説
次の単位の「人心一念之正」と対になる一則で、ここでは邪念の側を描いています。心に邪念が生じると鬼がそれに付け入り、昼も夜も人を悩ませて、最後には禍を起こすと言います。播弄はもてあそぶことです。結びの「邪心即是鬼」が要で、鬼は外から来るのではなく、邪心そのものが鬼であり、外の鬼はそれに呼応するだけだというのです。民間の鬼神信仰の言葉を借りながら、心の持ち方の問題に引き戻しているところに、編者の意図が見えます。後ろめたいことをすると、人の目や物音にまでおびえるようになるものです。不安の出どころを外ではなく自分の心に探す視点を与えてくれます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
邪念心鬼神慎独修身
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