格言聯璧 / 惠吉類・心を良田と作す
窮達有命,吉凶由人。 以鏡自照見形容,以心自照見吉凶。 善為至寶,一生用之不盡。 心作良田,百世耕之有餘。 世事讓三分,天空地闊。
新字:窮達有命,吉凶由人。 以鏡自照見形容,以心自照見吉凶。 善為至宝,一生用之不尽。 心作良田,百世耕之有余。 世事譲三分,天空地闊。
書き下し
窮達は命有り、吉凶は人に由る。 鏡を以て自ら照せば形容を見、心を以て自ら照せば吉凶を見る。 善を至寶と為さば、一生之を用ひて盡きず。 心を良田と作さば、百世之を耕して餘り有り。 世事三分を讓れば、天空しく地闊し。
現代語訳
困窮するか栄達するかは天命によりますが、吉か凶かは人によって決まります。 鏡で自分を照らせば姿かたちが見え、心で自分を照らせば吉凶が見えます。 善を最高の宝とすれば、一生使っても尽きることがありません。 心をよい田とすれば、百代耕しても余りがあります。 世の事で三分を人に譲れば、天は空々と広く地は大きく開けます。
解説
一行目は、身の窮達は自分の力の及ばない命だが、吉凶は自分の行いで決まると分けて考えます。二行目は鏡と心を対にし、外の姿は鏡に、内の吉凶は心に照らして見よと言います。続く対句は、善を宝に、心を田にたとえ、使っても尽きず、耕すほど実る財産だと説きます。最後の行は次の単位の「心田培一點」と対になり、少し譲ることで世界が広く感じられると述べます。天空地闊は、気持ちが晴れて広々とするさまです。自分では変えられない結果にこだわるより、変えられる心と行いに力を注ぐことが、吉を招く近道なのでしょう。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
積善心謙譲吉凶処世
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