格言聯璧 / 接物類・古人は人を愛するの意多し
古人愛人之意多,故人易於改過;而視我也常親,我之教益易行。 今人惡人之意多,故人甘於自棄;而視我也常仇,我之言必不入。 喜聞人過,不若喜聞己過。
新字:古人愛人之意多,故人易於改過;而視我也常親,我之教益易行。 今人悪人之意多,故人甘於自棄;而視我也常仇,我之言必不入。 喜聞人過,不若喜聞己過。
書き下し
古人は人を愛するの意多し、故に人過ちを改むるに易く、而して我を視ること常に親しく、我の教へ益々行はれ易し。 今人は人を惡むの意多し、故に人自ら棄つるに甘んじ、而して我を視ること常に仇のごとく、我の言必ず入らず。 喜びて人の過ちを聞くは、喜びて己の過ちを聞くに若かず。
現代語訳
昔の人は人を愛する気持ちが強かったので、人は過ちを改めやすく、自分を常に親しく見てくれて、自分の教えもますます行われやすかったのです。 今の人は人を憎む気持ちが強いので、人は自暴自棄に甘んじ、自分を常に仇のように見て、自分の言葉は決して相手の心に入りません。 人の過ちを聞いて喜ぶのは、自分の過ちを聞いて喜ぶことに及びません。
解説
人を正そうとするときの心の向きが、結果を左右することを説いた則です。古人は相手を愛する気持ちで接したので、相手は素直に過ちを改め、教えも通りました。今の人は相手を憎む気持ちで接するので、相手は開き直り、言葉は届きません。同じ忠告でも、愛から出るか憎しみから出るかで、相手の受け取り方がまったく違うというのです。最後の句は、次の単位の「己の善を道ふより人の善を道へ」と対になり、人の過ちを聞いて喜ぶより、自分の過ちを聞いて喜べと説きます。孟子に、子路は人から過ちを告げられると喜んだとあります。部下や子どもを叱るとき、その言葉の根にあるのが相手への愛情か苛立ちかを、一度確かめてみたいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
仁愛忠告接物改過自省
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