格言聯璧 / 持躬類・之を殺すを仁と爲す者有り
足恭偽態,禮之賊也。苛察歧疑,智之賊也。 苟約固守,信之賊也。 有殺之為仁,生之為不仁者。 有取之為義,與之為不義者。 有卑之為禮,尊之為非禮者。
新字:足恭偽態,礼之賊也。苛察歧疑,智之賊也。 苟約固守,信之賊也。 有殺之為仁,生之為不仁者。 有取之為義,与之為不義者。 有卑之為礼,尊之為非礼者。
書き下し
足恭の僞態は、禮の賊なり。苛察の歧疑は、智の賊なり。 苟約の固守は、信の賊なり。 之を殺すを仁と爲し、之を生かすを不仁と爲す者有り。 之を取るを義と爲し、之を與ふるを不義と爲す者有り。 之を卑しくするを禮と爲し、之を尊ぶを非禮と爲す者有り。
現代語訳
うわべだけ度を越してうやうやしくする偽りの態度は、礼を損なう賊です。厳しく粗探しをして疑いを分けて回るのは、智を損なう賊です。 いい加減な約束をかたくなに守るのは、信を損なう賊です。 殺すことが仁であり、生かすことが不仁である場合があります。 取ることが義であり、与えることが不義である場合があります。 低く扱うことが礼であり、尊ぶことが礼にかなわない場合があります。
解説
前の単位からの五常の偽物の列の続きで、足恭、つまり度を越した恭しさは礼の賊、苛察は智の賊、つまらない約束に固執することは信の賊だと言います。足恭は『論語』公冶長篇で孔子が恥じたもの、小さな約束を守りすぎることは『論語』子路篇の「言必ず信、行必ず果、硜硜然たる小人」に通じます。後半は逆説の三句で、殺すことが仁、取ることが義、卑しめることが礼になる場合があると言います。形の上では善に見えることが実は悪で、悪に見えることが実は善であることもあるのです。規則を機械的に当てはめず、状況のなかで本当の善を見極めよという教えです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
五常権道持躬判断礼
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孟子・告子章句下任人屋廬子に問ふ有りて曰く、「礼と食と孰れか重き。」曰く、「礼重し。」「色と礼と孰れか重き。」曰く、「礼重し。」曰く、「礼を以て食へば則ち飢ゑて死し、礼を以てせずして食へば則ち食を得んに、必ず礼を以てせんか。親迎すれば則ち妻を得ず、親迎せざれば則ち妻を得んに、必ず親迎せんか。」屋廬子対ふる能はず。明日鄒に之きて以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「是に答ふるに於いて何か有らん。其の本を揣らずして、其の末を斉しくせば、方寸の木も岑楼より高からしむべし。金は羽より重しとは、豈に一鉤の金と一輿の羽との謂ならんや。食の重き者と礼の軽き者とを取りて之を比べば、奚ぞ翅に食重きのみならん。色の重き者と礼の軽き者とを取りて之を比べば、奚ぞ翅に色重きのみならん。往きて之に応へて曰へ、『兄の臂を紾りて之が食を奪へば、則ち食を得、紾らざれば、則ち食を得ずんば、則ち将に之を紾らんとするか。東家の墻を逾えて其の処子を摟けば、則ち妻を得、摟かざれば、則ち妻を得ずんば、則ち将に之を摟かんとするか。』と。」
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