格言聯璧 / 持躬類・己の不是を見るは萬善の門
眾惡必察,眾好必察易。 自惡必察,自好必察難。 見人不是,諸惡之根。 見己不是,萬善之門。 不為過三字,昧卻多少良心! 沒奈何三字,抹卻多少體面!
新字:衆悪必察,衆好必察易。 自悪必察,自好必察難。 見人不是,諸悪之根。 見己不是,万善之門。 不為過三字,昧却多少良心! 没奈何三字,抹却多少体面!
書き下し
衆の惡むは必ず察す、衆の好むを必ず察するは易し。 自ら惡むは必ず察す、自ら好むを必ず察するは難し。 人の不是を見るは、諸惡の根なり。 己の不是を見るは、萬善の門なり。 過ちと爲さずの三字、多少の良心を昧卻す。 奈何ともする沒しの三字、多少の體面を抹卻す。
現代語訳
多くの人が憎むものを必ず調べてみること、多くの人が好むものを必ず調べてみることは、まだやさしいことです。 自分が憎むものを必ず調べてみること、自分が好むものを必ず調べてみることは、難しいことです。 人の悪いところばかり見ることは、あらゆる悪の根です。 自分の悪いところを見ることは、あらゆる善の入り口です。 「過ちではない」という三文字が、どれほど多くの良心を曇らせてきたことでしょう。 「どうしようもない」という三文字が、どれほど多くの体面を消し去ってきたことでしょう。
解説
最初の対句は『論語』衛霊公篇の「衆之を悪むも必ず察し、衆之を好むも必ず察す」を踏まえ、世間の好悪を吟味するのはまだ易しいが、自分自身の好悪を吟味するのは難しいと一歩進めています。自分の好き嫌いこそ、疑わずに信じてしまうものだからです。続く対句は、人の非を見るのは悪の根、己の非を見るのは善の門と言い切ります。最後の二句は口癖への戒めで、「過ちではない」と言い張るたびに良心が曇り、「仕方がない」と言い訳するたびに体面が失われると言います。何気なく口にする言い訳の言葉を点検したくなる一条です。
この章句が説くこと
自省好悪持躬良心言い訳
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