格言聯璧 / 持躬類・天、我を薄くするに福を以てせば、吾が德を厚くす
能造就人材者,天不能孤,能以身任天下後世者,天不能絕。 天薄我以福,吾厚吾德以迓之。 天勞我以形,吾逸吾心以補之。 天危我以遇,吾享吾道以通之。
新字:能造就人材者,天不能孤,能以身任天下後世者,天不能絶。 天薄我以福,吾厚吾徳以迓之。 天労我以形,吾逸吾心以補之。 天危我以遇,吾享吾道以通之。
書き下し
能く人材を造就する者は、天も孤ならしむる能はず。能く身を以て天下後世を任ずる者は、天も絕つ能はず。 天、我を薄くするに福を以てせば、吾、吾が德を厚くして以て之を迓ふ。 天、我を勞するに形を以てせば、吾、吾が心を逸にして以て之を補ふ。 天、我を危くするに遇を以てせば、吾、吾が道を享らせて以て之を通ず。
現代語訳
人材を育て上げることのできる人は、天でさえ孤立させることはできません。自分の身で天下と後世を引き受けることのできる人は、天でさえ絶やすことはできません。 天が私に福を薄くしか与えないなら、私は自分の徳を厚くしてそれを迎えます。 天が私の体を苦労させるなら、私は自分の心を安らかにしてそれを補います。 天が私を危うい境遇に置くなら、私は自分の道を通してそれを切り開きます。
解説
前の単位からの列の結びとして、人材を育てる人は孤立せず、天下後世を担う人は絶えないという二句が置かれています。後半は菜根譚にもほぼ同じ句がある有名な言葉で、天が福を薄くすれば徳を厚くし、形を労すれば心を逸にし、境遇を危うくすれば道を通じさせると、天の与える不遇に自分の側の工夫で応えます。菜根譚では「享」が「亨」で、ここもその意に読みました。この列は次の単位の「天、我を苦しむるに境を以てせば」まで続きます。運を嘆くより、自分にできる応じ方を選ぶという主体的な姿勢が力強い一条です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
厚徳人材逆境持躬主体
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