十善法語 / 巻第十二・不邪見戒之下
此小技倆ノ中ニモ。有志ノ者ハ斷常ノ二見ヲ超過スルシヤ。荀子カ非相篇ヲ著シテ姑布子卿唐擧ヲ非スル。此等ハ一偏ノ論シヤ。其中ニ相形不如論心。論心不如擇術ト云ハ。格言ト云ヘシ。又慧能禪師ノ言ニ。相ヲ以テ人ヲ取ルハ。愚ノ甚シキナリトアルハ。別段ノコトソ。要ヲ取テ云ハハ。相心ノアルトコロ。心ハ相ノ赴ク處。タトヒ一指節ト云モ。ミナ心ノ顯レタ姿シヤ。家相ヲ見ルモノカ。家宅ヲ見テ。其主人ノ吉凶志性マテ占フ。此モ家宅ハ是レ主人業相ノ姿。主人ハ家宅ノ規度シヤ。元來不二ナル故ニ。主人ノ榮衰ヲ顯シテ隱シ得ヌシヤ。
新字:此小技倆ノ中ニモ。有志ノ者ハ断常ノ二見ヲ超過スルシヤ。荀子カ非相篇ヲ著シテ姑布子卿唐挙ヲ非スル。此等ハ一偏ノ論シヤ。其中ニ相形不如論心。論心不如択術ト云ハ。格言ト云ヘシ。又慧能禅師ノ言ニ。相ヲ以テ人ヲ取ルハ。愚ノ甚シキナリトアルハ。別段ノコトソ。要ヲ取テ云ハハ。相心ノアルトコロ。心ハ相ノ赴ク処。タトヒ一指節ト云モ。ミナ心ノ顕レタ姿シヤ。家相ヲ見ルモノカ。家宅ヲ見テ。其主人ノ吉凶志性マテ占フ。此モ家宅ハ是レ主人業相ノ姿。主人ハ家宅ノ規度シヤ。元来不二ナル故ニ。主人ノ栄衰ヲ顕シテ隠シ得ヌシヤ。
書き下し
此小技倆ノ中ニモ。有志ノ者ハ断常ノ二見ヲ超過スルシヤ。荀子カ非相篇ヲ著シテ姑布子卿唐挙ヲ非スル。此等ハ一偏ノ論シヤ。其中ニ相形不如論心。論心不如択術ト云ハ。格言ト云ヘシ。又慧能禅師ノ言ニ。相ヲ以テ人ヲ取ルハ。愚ノ甚シキナリトアルハ。別段ノコトソ。要ヲ取テ云ハハ。相心ノアルトコロ。心ハ相ノ赴ク処。タトヒ一指節ト云モ。ミナ心ノ顕レタ姿シヤ。家相ヲ見ルモノカ。家宅ヲ見テ。其主人ノ吉凶志性マテ占フ。此モ家宅ハ是レ主人業相ノ姿。主人ハ家宅ノ規度シヤ。元来不二ナル故ニ。主人ノ栄衰ヲ顕シテ隠シ得ヌシヤ。
現代語訳
この小さな技の中にも、志のある者は断見と常見の二つの見方を超えるのである。荀子が非相篇を著して、姑布子卿や唐挙を非難している。これらは一方に偏った論である。その中に、形を相ることは心を論じることに及ばず、心を論じることは術を選ぶことに及ばない、と言うのは、格言と言うべきである。また慧能禅師の言葉に、相によって人を取るのは愚かの甚だしいものである、とあるのは、別の趣旨のことである。要点をつかんで言えば、相は心のある所であり、心は相の向かう所である。たとえ指の一節といっても、みな心の現れた姿である。家相を見る者が、家を見て、その主人の吉凶や志や性質まで占う。これも、家はその主人の業のありさまの姿であり、主人は家の規矩である。もともと二つではないから、主人の栄枯盛衰を現して隠しきれないのである。
解説

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