十善法語 / 巻第十二・不邪見戒之下
シカシ此中一向ニ教相性相ノ學ヲ棄ヨト云デハナイ。佛モ自ラ性相ヲ分別シタマフ。大乘ノ瑜伽中邊等。小乘ノ發智婆娑等。實ニ正法ノ在ルトコロシヤ。小機ノ爲ニ小法ヲ說キ。大機ノ爲ニ大法ヲ說玉フ。法華ノ開顯モ。華嚴ノ融攝モ。密教ノ表德モ。實ニ正法ノアル處。悉ク甚深ナル處シヤ。自己タニ明ナラハ。教相ノ淺深モ。性相分別モ。妨ケヌコトシヤ。儒者老子ノ道ヲモ一向ニ棄ヨト云テハナイ。人倫五常ハ六經史傳等ヲ用ヒ。刑名吏事ニハ申韓管晏ヲモ用ヒ。天道地道ハ易道德經ヲ用フヘキシヤ。今時ノ自己ヲ忘レテ唯教相ヲノミ判シ。妄分別ニ隨順シテ理屈ヲ巧ニスル者ハ。迷ノ大ナルモノ。耻ヘキノ甚シキシヤ。
新字:シカシ此中一向ニ教相性相ノ学ヲ棄ヨト云デハナイ。仏モ自ラ性相ヲ分別シタマフ。大乗ノ瑜伽中辺等。小乗ノ発智婆娑等。実ニ正法ノ在ルトコロシヤ。小機ノ為ニ小法ヲ説キ。大機ノ為ニ大法ヲ説玉フ。法華ノ開顕モ。華厳ノ融摂モ。密教ノ表徳モ。実ニ正法ノアル処。悉ク甚深ナル処シヤ。自己タニ明ナラハ。教相ノ浅深モ。性相分別モ。妨ケヌコトシヤ。儒者老子ノ道ヲモ一向ニ棄ヨト云テハナイ。人倫五常ハ六経史伝等ヲ用ヒ。刑名吏事ニハ申韓管晏ヲモ用ヒ。天道地道ハ易道徳経ヲ用フヘキシヤ。今時ノ自己ヲ忘レテ唯教相ヲノミ判シ。妄分別ニ随順シテ理屈ヲ巧ニスル者ハ。迷ノ大ナルモノ。耻ヘキノ甚シキシヤ。
書き下し
シカシ此中一向ニ教相性相ノ学ヲ棄ヨト云デハナイ。仏モ自ラ性相ヲ分別シタマフ。大乗ノ瑜伽中辺等。小乗ノ発智婆娑等。実ニ正法ノ在ルトコロシヤ。小機ノ為ニ小法ヲ説キ。大機ノ為ニ大法ヲ説玉フ。法華ノ開顕モ。華厳ノ融摂モ。密教ノ表徳モ。実ニ正法ノアル処。悉ク甚深ナル処シヤ。自己タニ明ナラハ。教相ノ浅深モ。性相分別モ。妨ケヌコトシヤ。儒者老子ノ道ヲモ一向ニ棄ヨト云テハナイ。人倫五常ハ六経史伝等ヲ用ヒ。刑名吏事ニハ申韓管晏ヲモ用ヒ。天道地道ハ易道徳経ヲ用フヘキシヤ。今時ノ自己ヲ忘レテ唯教相ヲノミ判シ。妄分別ニ随順シテ理屈ヲ巧ニスル者ハ。迷ノ大ナルモノ。耻ヘキノ甚シキシヤ。
現代語訳
しかし、ここで教相や性相の学問を一切捨てよと言うのではない。仏も自ら性相を分別なさった。大乗の瑜伽論や中辺分別論など、小乗の発智論や婆沙論などは、まことに正法のある所である。小さな器の者のために小さな法を説き、大きな器の者のために大きな法をお説きになる。法華経の開顕も、華厳経の融摂も、密教の表徳も、まことに正法のある所であり、ことごとく甚だ深い所である。自己さえ明らかであれば、教相の浅い深いも、性相の分別も、妨げにならないのである。儒者や老子の道をも一切捨てよと言うのではない。人倫や五常には六経や史書を用い、刑罰や官吏の事務には申不害・韓非子・管子・晏子をも用い、天の道・地の道には易経や道徳経を用いるべきである。今時の、自己を忘れてただ教相ばかりを判じ、妄りな分別に従って理屈を巧みにする者は、迷いの大きなものであり、恥ずべきことの甚だしいものである。
解説
この章句が説くこと
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