十善法語 / 巻第十二・不邪見戒之下
後世佛者ノ類ハ自宗他宗ノ佛クラヘ法クラヘハカリヲナス。我家ノ佛コソ尊ケレ。我宗コソ便ナレト云。唯文字ノ上ノ勝相ハカリヲ談シテ居ル。文字ノ勝相モ無盡ナルニ由テ。好メハイツマテモ盡ヌ。言ヘハイツマテモ盡ヌ。高キコトヲ好メハ都表ナク高クナル。頓教圓教大乘無上乘ナトト云テ。甚ニ至テハ佛語ヲモ自己ノ妄想ヲ以テ取捨判斷スルヤウニ成ルシヤ。微密ナルコトヲ好メハ至極微密ニ成テ。正理顯宗。今時ノ因明學者ノ樣ニナリ下ルシヤ。脚モトニアルコトヲ知ラスシテ。外ニ向テ求ル者ハ皆此類ソ。儒者ト云ヒ。佛者ト云ヒ。外道ト云ヒ內道ト云。名ハ違ヘトモ。實ノ道ヲ得ヌ者ハ。ソノ迷ハ一シヤ。
新字:後世仏者ノ類ハ自宗他宗ノ仏クラヘ法クラヘハカリヲナス。我家ノ仏コソ尊ケレ。我宗コソ便ナレト云。唯文字ノ上ノ勝相ハカリヲ談シテ居ル。文字ノ勝相モ無尽ナルニ由テ。好メハイツマテモ尽ヌ。言ヘハイツマテモ尽ヌ。高キコトヲ好メハ都表ナク高クナル。頓教円教大乗無上乗ナトト云テ。甚ニ至テハ仏語ヲモ自己ノ妄想ヲ以テ取捨判断スルヤウニ成ルシヤ。微密ナルコトヲ好メハ至極微密ニ成テ。正理顕宗。今時ノ因明学者ノ様ニナリ下ルシヤ。脚モトニアルコトヲ知ラスシテ。外ニ向テ求ル者ハ皆此類ソ。儒者ト云ヒ。仏者ト云ヒ。外道ト云ヒ内道ト云。名ハ違ヘトモ。実ノ道ヲ得ヌ者ハ。ソノ迷ハ一シヤ。
書き下し
後世仏者ノ類ハ自宗他宗ノ仏クラヘ法クラヘハカリヲナス。我家ノ仏コソ尊ケレ。我宗コソ便ナレト云。唯文字ノ上ノ勝相ハカリヲ談シテ居ル。文字ノ勝相モ無尽ナルニ由テ。好メハイツマテモ尽ヌ。言ヘハイツマテモ尽ヌ。高キコトヲ好メハ都表ナク高クナル。頓教円教大乗無上乗ナトト云テ。甚ニ至テハ仏語ヲモ自己ノ妄想ヲ以テ取捨判断スルヤウニ成ルシヤ。微密ナルコトヲ好メハ至極微密ニ成テ。正理顕宗。今時ノ因明学者ノ様ニナリ下ルシヤ。脚モトニアルコトヲ知ラスシテ。外ニ向テ求ル者ハ皆此類ソ。儒者ト云ヒ。仏者ト云ヒ。外道ト云ヒ内道ト云。名ハ違ヘトモ。実ノ道ヲ得ヌ者ハ。ソノ迷ハ一シヤ。
現代語訳
後世の仏教者のたぐいは、自分の宗と他の宗の、仏比べ、法比べばかりをする。我が家の仏こそ尊い、我が宗こそ便利だ、と言う。ただ文字の上の優劣ばかりを談じている。文字の上の優劣も尽きることがないので、好めばいつまでも尽きない。言えばいつまでも尽きない。高いことを好めば、際限なく高くなる。頓教・円教・大乗・無上乗などと言って、甚だしい場合には、仏の言葉さえ自分の妄想で取捨し判断するようになるのである。細密なことを好めば、極めて細密になって、正理論や顕宗論、今時の因明学者のようになり下がるのである。足もとにあることを知らないで外に向かって求める者は、みなこのたぐいである。儒者といい、仏者といい、外道といい、内道といい、名は違っても、真実の道を得ていない者は、その迷いは一つである。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』邪正を見分けるには問眞實に大悟せる人は、邪正に迷ふべからず、然ば天魔外道來りて種々の法門を說く共、誑惑せらるべからず、いまだ正悟を得ざる人は、いかでか邪正をもわかつべき、しかるに古の先達所談の法門も一致ならず、今時の知識のしめさるゝ修行用心も亦まち〱なり、初心の學者いかにしてか、其の邪正を辨すべきや。 答末代は邪說さかりにして、正法を亂る事多し、世間の相撲、競馬、圍碁、雙六なんとは、其の勝負のすがたをかねてより定め置きたる故に、これをたゞす事まぎれなし、所領の相論罪科の輕重ごときは、其の理非まことに決斷しがたき事ありといへ共、上裁を仰ぐ故についに落居せずといふ事なし、佛法にはかねてより定め置きたる勝負の體もなし、面々たゞ我が心得たるを本として、我が法門勝れたりと思へども、別人はこれをゆるさず、世間の沙汰のごとくならねば上裁とて仰ぐべき人もなし、面々の引くところの證文は、佛祖の言語なれども文は執見によりてかはることなれば、證據とするにたらず。各我が信ずる所の知識の印可を以て證明とす、それも緣者の證人なれば、信用にたらず、しかるを愚人、我が妄想の信を本として何に宗にても、先づ一法門を信じぬれば、餘宗をば皆これをきらふ、我が知識とて信じそめぬれば、餘人の法門は皆劣なりと思ふて、耳にも觸れんとする者あり、此れは是れ愚人の中の愚人なり、或は諸宗の法門もかはり、知識の示すことも同じからざる處に、自ら決斷することあたはず、茫然として浪にもつかず、磯にもつかぬ人あり。かやうの人はいづれも、いまだ敎外別傳の題目を信ぜざる者なり、たとひ悟りを開かず共、若しよく敎外の題目を信ずる人は、眞實の正法は言語の上にあらざる事を知れる故に、一師の言語を堅執してこれをのみ貴ぶこともあるべからず、諸師の言語のかはれるによりて、迷惑することもあるべからず、世間の食物其の味ひ一種にあらず、其の中に何をか本と定むべきや、人の天性まち〱なる故に甘き物をこのむ人もあり、辛き物を愛する人もあり、若し我がこのむ味を本として餘の味ひは、皆いたづらなりと言はゞ愚人なるべし、法門も亦かくのごとし、衆生の性欲同からざる故に我が心には、此の法門を貴しと思ふと、いはゞさもありぬべし、若し我が思ひの本として此の法門は正理なり、餘の法門は皆眞實にあらずと執せば是れ邪說なり、法花經に云く、有を破する法王、世に出て衆生の性欲に隨つて種々に說法すと云云。しるべし如來種々の法門は衆生迷倒の性欲に隨つてかりに說かれたる事なり。若し直に衆生と佛といまだわかれざる本分に向ふ人は、種々の法門を聞くとも、其の勝劣是非の中に心を勞せんや、古人の云く、佛一切の法を說くことは、一切の心を度せんがためなり。我れに一切の心なし何ぞ一切法を用やと云云。
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