十善法語 / 巻第二・不偸盜戒
中ニ就テ悲ヘキ事ハ今ノ佛法シヤ。多クトリ違テヲルシヤ。近世教相ヲ建立スル者ハ。佛法ト云ヘハ。向上ニ廣大ニ說示ス。識別有ン者ハ推察シ看ヨ。佛在世ニ天龍八部人非人男子女人ヲ集テ垂誠有タカ今ノ經文シヤ。其至レル場處ハ甚深ナルヘキナレトモ。其文句ハ人人聞得テ利益ヲ得タコトシヤ。ムツカシカルヘキテハナイ。唯支那國中古已來俊邁ノ士カ自己ノ智慧ヲ極テ向上ニ言ヒナス。其次ニ出ル者ハ其ヨリ上ナルコトヲ言出シ。其次ニ出ル者ハ又其ヨリ上ナルコトヲ言出シテ。今ノ教相學ニ成タコトシヤ。佛在世賢聖在世ニハナキコトシヤ。教相判斷カ精テモ高クテモ。身ノ修リニモ國家ノ治リニモ用ニ立ヌ。勿論生死解脫ノ要路ニ違ヒ。佛意ニモ背クコトシヤ。
新字:中ニ就テ悲ヘキ事ハ今ノ仏法シヤ。多クトリ違テヲルシヤ。近世教相ヲ建立スル者ハ。仏法ト云ヘハ。向上ニ広大ニ説示ス。識別有ン者ハ推察シ看ヨ。仏在世ニ天竜八部人非人男子女人ヲ集テ垂誠有タカ今ノ経文シヤ。其至レル場処ハ甚深ナルヘキナレトモ。其文句ハ人人聞得テ利益ヲ得タコトシヤ。ムツカシカルヘキテハナイ。唯支那国中古已来俊邁ノ士カ自己ノ智慧ヲ極テ向上ニ言ヒナス。其次ニ出ル者ハ其ヨリ上ナルコトヲ言出シ。其次ニ出ル者ハ又其ヨリ上ナルコトヲ言出シテ。今ノ教相学ニ成タコトシヤ。仏在世賢聖在世ニハナキコトシヤ。教相判断カ精テモ高クテモ。身ノ修リニモ国家ノ治リニモ用ニ立ヌ。勿論生死解脱ノ要路ニ違ヒ。仏意ニモ背クコトシヤ。
書き下し
中ニ就テ悲ヘキ事ハ今ノ仏法シヤ。多クトリ違テヲルシヤ。近世教相ヲ建立スル者ハ。仏法ト云ヘハ。向上ニ広大ニ説示ス。識別有ン者ハ推察シ看ヨ。仏在世ニ天竜八部人非人男子女人ヲ集テ垂誠有タカ今ノ経文シヤ。其至レル場処ハ甚深ナルヘキナレトモ。其文句ハ人人聞得テ利益ヲ得タコトシヤ。ムツカシカルヘキテハナイ。唯支那国中古已来俊邁ノ士カ自己ノ智慧ヲ極テ向上ニ言ヒナス。其次ニ出ル者ハ其ヨリ上ナルコトヲ言出シ。其次ニ出ル者ハ又其ヨリ上ナルコトヲ言出シテ。今ノ教相学ニ成タコトシヤ。仏在世賢聖在世ニハナキコトシヤ。教相判断カ精テモ高クテモ。身ノ修リニモ国家ノ治リニモ用ニ立ヌ。勿論生死解脱ノ要路ニ違ヒ。仏意ニモ背クコトシヤ。
現代語訳
中でも悲しむべき事は今の仏法である。多く取り違えているのである。近世に教相を建立する者は、仏法と言えば高遠に広大に説き示す。識別ある者は推察して見よ。仏在世に、天・竜など八部衆・人・非人・男子・女人を集めて誡めを垂れられたのが今の経文である。その至った境地は甚だ深いはずであるけれども、その文句は人々が聞いて理解し、利益を得たことである。難しいはずのものではない。ただ中国の中古以来、俊才の士が自分の智慧を極めて高遠に言いなす。その次に出る者はそれより上のことを言い出し、その次に出る者はまたそれより上のことを言い出して、今の教相の学となったことである。仏在世、賢聖在世にはなかったことである。教相の判断が精密でも高遠でも、身が修まることにも国家が治まることにも役に立たない。もちろん生死を解脱する要の道に違い、仏の意図にも背くことである。
解説
この章句が説くこと
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