十善法語 / 巻第十一・不邪見戒之中
緣事ヲ擧テイハハ。佛滅後或尼寺ニ一人ノ中年容貌端正ノ尼有リ。持戒精勤衆人ニ勝ル。諸ノ尼衆問フ。女人ノ法トシテ。智慧淺薄ニシテ。煩惱熾盛ナリ。汝志性堅固ナルコト衆人ニ勝ル。若ハ聖者ニ非ズヤト。此尼淚ヲ垂。慚愧シテ答フ。一ツノ懺悔スベキ事アリ。我少年ノトキ早ク嫁ス。一人ノ男子ヲ得タリ。我夫タル者久カラスシテ死ス。一人此兒ヲソタツ。容貌モ才藝モ相應ニ生ヒ立シニ由テ。母子ノ愛情イヤマシニ深シ。此者成長スルニ就テ。同類近隣ノ女子アル者ハ。多ク妻スヘキ思ヲ寄ス。此者ミナ辭ス。ホドナク病ニ臥シテ日日ニ憔悴ス。衆醫カ皆云。此ハ風寒暑濕ノ侵ス所ナラス。心ノ抑欝ヨリ生スト。此ヲ聞テ。ソノ親シキ者ニ思フ所ヲ問シム。彼答フ。我オモヒアレトモ。有マシキコトナリ。言ヘカラス。問者慇懃ニ問ココロム。彼云。極テ慚ベキナレトモ。我母ニ愛着心生シテ此病トナルト。其者此由ヲ我ニ告ク。我モ有マシキコトナレトモ。子ヲ殺スコトヲナケカハシク思テ。其事ヲ許ス。彼コレヲ聞テ。次第ニ其病平愈ニ赴ク。或夜我床ニ上ラントスル時。家居動搖シ。彼カ身戰掉シ。大地クボンテ陷ントス。我此ヲ悲テ。彼カ髪ヲ取テ引擧ントス。其髮脫テ終ニ陷リ沒ス。其髪今現ニ爰ニ在リ。此因緣ニ由テ。生死ノ怖ルヘキヲ思ヒ。世染ノ思ナク。唯三寶ニ歸投スト。
新字:縁事ヲ挙テイハハ。仏滅後或尼寺ニ一人ノ中年容貌端正ノ尼有リ。持戒精勤衆人ニ勝ル。諸ノ尼衆問フ。女人ノ法トシテ。智慧浅薄ニシテ。煩悩熾盛ナリ。汝志性堅固ナルコト衆人ニ勝ル。若ハ聖者ニ非ズヤト。此尼涙ヲ垂。慚愧シテ答フ。一ツノ懺悔スベキ事アリ。我少年ノトキ早ク嫁ス。一人ノ男子ヲ得タリ。我夫タル者久カラスシテ死ス。一人此児ヲソタツ。容貌モ才芸モ相応ニ生ヒ立シニ由テ。母子ノ愛情イヤマシニ深シ。此者成長スルニ就テ。同類近隣ノ女子アル者ハ。多ク妻スヘキ思ヲ寄ス。此者ミナ辞ス。ホドナク病ニ臥シテ日日ニ憔悴ス。衆医カ皆云。此ハ風寒暑湿ノ侵ス所ナラス。心ノ抑欝ヨリ生スト。此ヲ聞テ。ソノ親シキ者ニ思フ所ヲ問シム。彼答フ。我オモヒアレトモ。有マシキコトナリ。言ヘカラス。問者慇懃ニ問ココロム。彼云。極テ慚ベキナレトモ。我母ニ愛着心生シテ此病トナルト。其者此由ヲ我ニ告ク。我モ有マシキコトナレトモ。子ヲ殺スコトヲナケカハシク思テ。其事ヲ許ス。彼コレヲ聞テ。次第ニ其病平愈ニ赴ク。或夜我床ニ上ラントスル時。家居動揺シ。彼カ身戦掉シ。大地クボンテ陥ントス。我此ヲ悲テ。彼カ髪ヲ取テ引挙ントス。其髪脱テ終ニ陥リ没ス。其髪今現ニ爰ニ在リ。此因縁ニ由テ。生死ノ怖ルヘキヲ思ヒ。世染ノ思ナク。唯三宝ニ帰投スト。
書き下し
縁事ヲ挙テイハハ。仏滅後或尼寺ニ一人ノ中年容貌端正ノ尼有リ。持戒精勤衆人ニ勝ル。諸ノ尼衆問フ。女人ノ法トシテ。智慧浅薄ニシテ。煩悩熾盛ナリ。汝志性堅固ナルコト衆人ニ勝ル。若ハ聖者ニ非ズヤト。此尼涙ヲ垂。慚愧シテ答フ。一ツノ懺悔スベキ事アリ。我少年ノトキ早ク嫁ス。一人ノ男子ヲ得タリ。我夫タル者久カラスシテ死ス。一人此児ヲソタツ。容貌モ才芸モ相応ニ生ヒ立シニ由テ。母子ノ愛情イヤマシニ深シ。此者成長スルニ就テ。同類近隣ノ女子アル者ハ。多ク妻スヘキ思ヲ寄ス。此者ミナ辞ス。ホドナク病ニ臥シテ日日ニ憔悴ス。衆医カ皆云。此ハ風寒暑湿ノ侵ス所ナラス。心ノ抑欝ヨリ生スト。此ヲ聞テ。ソノ親シキ者ニ思フ所ヲ問シム。彼答フ。我オモヒアレトモ。有マシキコトナリ。言ヘカラス。問者慇懃ニ問ココロム。彼云。極テ慚ベキナレトモ。我母ニ愛着心生シテ此病トナルト。其者此由ヲ我ニ告ク。我モ有マシキコトナレトモ。子ヲ殺スコトヲナケカハシク思テ。其事ヲ許ス。彼コレヲ聞テ。次第ニ其病平愈ニ赴ク。或夜我床ニ上ラントスル時。家居動揺シ。彼カ身戦掉シ。大地クボンテ陥ントス。我此ヲ悲テ。彼カ髪ヲ取テ引挙ントス。其髪脱テ終ニ陥リ没ス。其髪今現ニ爰ニ在リ。此因縁ニ由テ。生死ノ怖ルヘキヲ思ヒ。世染ノ思ナク。唯三宝ニ帰投スト。
現代語訳
因縁話を挙げて言えば、仏の滅後、ある尼寺に、中年で容貌の端正な一人の尼がいた。戒を保ち精進することは人々に勝っていた。尼たちが問うた。「女人の常として、智慧は浅く、煩悩は盛んなものです。あなたの志の堅固さは人々に勝っています。もしや聖者なのではありませんか」。この尼は涙を垂れ、恥じ入って答えた。「一つ懺悔すべきことがあります。私は若い時に早く嫁ぎ、一人の男の子を得ました。夫は久しからずして死に、一人でこの子を育てました。容貌も才芸も人並み以上に育ったので、母と子の愛情はいよいよ深まりました。この子が成長するにつれて、近隣の同じような家の娘のある者は、多く妻にと心を寄せましたが、この子はみな断りました。ほどなく病に臥して日に日にやつれました。医者たちは皆、これは風・寒・暑・湿が侵したものではなく、心の鬱屈から生じたものだと言いました。これを聞いて、親しい者に思うところを問わせました。子は、思いはあるが、あってはならないことなので言えない、と答えました。問う者がねんごろに問うてみると、子は、きわめて恥ずべきことだが、母に愛着の心が生じてこの病になったのだ、と言いました。その者がこのわけを私に告げました。私も、あってはならないこととは思いながら、子を死なせることを嘆かわしく思って、そのことを許しました。子はこれを聞いて次第に病が快方に向かいました。ある夜、子が私の床に上ろうとした時、家が揺れ動き、子の身は震えおののき、大地がくぼんで落ち込もうとしました。私はこれを悲しんで、子の髪をつかんで引き上げようとしましたが、その髪が抜けて、ついに子は陥って沈んでしまいました。その髪は今も現にここにあります。この因縁によって、生死の恐るべきことを思い、世俗に染まる思いはなく、ただ三宝に帰依しているのです」と。
解説
この章句が説くこと
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『十善法語』巻第十一・不邪見戒之中是ハ仏滅後ノコト。付法蔵伝等ニアル縁事シヤ。天竺国ニ。夫婦相敬愛シテ情厚キ者有リ。其夫少壮ノ年ニ命終ス。此妻殊ニ悲ニ堪ズ。亡夫ノ為ニ脇尊者ヲ請シテ供養ス。ソノトキ鼻ヨリ虫出タルヲ。庭上ニ投シテ踏蹂ラントス。尊者云。且ク待テ。此ハ因縁ノ有コトソト。女人カ云。コノ七八日ノ間。我鼻ノ内ヲ悩ス。今幸ニ出ト。尊者再ヒ告ク。此ハ汝カ夫ノ後身ナリ。彼常ニ汝カ容色ヲ愛シ。身心繋縛セリ。其死セシ日ヨリ汝カ鼻ノ中ニ生ス。此虫ヲ殺サハ。汝カ身ニ灾有ヘク。其罪モ深カルヘシト。因ニ神力ヲ以テ此虫ノ本形ヲ顕シ見セシムト云コトカアル。此モ心ノ趣ク処ニ生ヲ受タモノシヤ。前ハ已カ面ニ生シ。此ハ妻ノ面ニ生ヲ受ル。受生ノ処ハ別ナレトモ。生死縁起ノ理ハ一シ。
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『十善法語』巻第十一・不邪見戒之中仏在世ノ事シヤ。経中ニ目連尊者ニ摩訶羅ノ弟子有リ。此人出家ノ後。自ラ諸根闇鈍ナルヲ省テ。憂悔ノ心生シ。自滅セントス。尊者神通力ヲ以テ直ニ其処ニ至リ。告テ云。汝自滅スルコト勿レ。汝ニ生死ノ趣ヲ知シメン。即禅定ニ入リ。将ヰテ海浜ニ至ル。此海浜ニ一ノ女人ノ屍有テ仰キ臥ス。其面上ニ虫有テ。或ハ鼻ヨリ入テ口ヨリ出。或ハ目ヨリ入テ鼻ヨリ出ツ。摩訶羅コレヲ見テ問。此ハイカナル人ノ屍ソト。尊者云。此者ハ商主ノ婦ナリ。其夫宝ヲ求ンタメ海洲ニ赴ク。此女人別ヲ惜ミ悲泣ス。哀声傍人ヲ感動ス。同旅ノ者云。万里ノ海波生死ハカリ難キナレハ。別ヲ惜ムモ其理アリ。然レトモ。今日ニ至テ思止マルヘキナラス。同船アルヘシト。商主カ此言ヲ用ヒテ。将ヰテ往。時ニ海中難風起リ。其船破砕シ。同侶悉ク溺レ死ス。此女人ハ平生鏡ニ照シ面ヲ見テ。自身ノ眉目ノウルハシキヲ楽ミシ者ナリ。今面上ノ虫ハ彼カ後身ナリト。此摩訶羅是等ノコトヲ観シテ浄信心ヲ生シ。其後尊者ノ教授ヲ受テ。終ニ羅漢果ヲ証得セシト云コトシヤ。
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『驢鞍橋』卷下師一日、去る処に至り物語の次に曰く、人間の一生涯ほど詮なき物なし。如何なる病をか受け、如何なる死をか為し、まだ此の身に如何なる業か有らんす。扨て扨て大義の物哉也と。時に其処の内儀これを聞て、ひしと受けられたり。常々病者なるか、扨ても因果の業体を受け来ること哉。我身また如何なる業か有らんと思ふより、心切に成り、是非是非業を尽くさんと云つて、咒をくり経をよみ、身を扣きつねり、肉のつぐろ死するほどして、念仏経咒を以てひたせめに責められたり。十日ほど如是して、一晩、持仏堂にて罪業を懺悔し居られけれは、ふと死苦に責められ、その機抜けす、真実起る也。又業体を使ひ殺さんと云て人を使はす、我身を使ひ、扨てもいやな御上様やと云て、内の者どもと一つに働き、工夫一偏に勤むる人有り。去る程に頓て病も抜け、女気なく男の様にそ見えたり。師是れを真実の修行者とし給ふ也。
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『十善法語』巻第五・不綺語戒仏在世ニ諸ノ官人長者ノ婦ガ。上ノ如キ事縁アル時。法与大尼ニ親近シテ。自身ヲ潔シテ。其夫ニモ邪婬ヲ止サセテ。共ニ聖域ニ昇シコトガアルシヤ。若又不幸ニシテ其夫ニトク離ルルモ。其身ヲ修メ。其家ヲ斉ヘ。其児女ヲ撫育スルニ道アルベキシヤ。毗舎伽母ノ類是シヤ。総シテ其ヲル処ニ安ンシ。来ル縁ニ随ヒ。道ヲ得テ心ニ相応セハ。糸竹管絃ノ及フ所テハナキコトシヤ。
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『驢鞍橋』卷上師一日去る処に到る。彼家に二人の息女有り、一人は十日先に気違に成り、亦一人も三日先に死したりとて、其母狂人の如くに成り、悲み居けるに、師教化有りて帰り給ふが、道にてひしと行留り、愕然として曰く、扨も扨も不便千万なる事哉、我と造り病をなし苦しむ物也。生に付け、死に付け、子に苦しむ有様痛敷事也。出家は是れ計りも仏祖の御恩徳忝き事也。
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『驢鞍橋』卷上是れに付て古き物語を思ひ出す。去る山寺に博士一宿す。明る日其寺に十二三の児有るを見て曰く、此児夕まては三日のうちに死すべき相有りけるか、今朝は八十迄の長命の相に成る。一夜の中に七十年の寿延びたる事不思議也。何たる善心を起されたぞ、いかなる善根ばしせられたぞと問ふ。一寺の衆も驚き子細を問ふ。児曰く、何たる善根もなしたるおぼえなし。夕雪隠へ行きければ、蹈板よごれて暫時がほども居にくかりし時、ふと思ひ当るやうは、片時の間さえかやうに居にくきに、我母は総身屎尿になれども、更に苦と思ふ念なく、只かはゆいと計り思ひ給へる深恩、扨々報じ難き事哉と、此思に報ふと思ひ、手を以て雪隠の板のよこれたるを払ひ清む、別に覚えなしと云ふ。人々此功徳なりとて感せられたると云ふ。是れ貴き物語りに有らすやと也。