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十善法語 / 巻第十一・不邪見戒之中

聖教ノ中ニ。人ノ死スル時。直ニ中有ノ形アラハル。極善極惡ノ者ヲ除テ。其餘ノ者ハ必皆此中有ノ形カ現ストアルシヤ。中有トハ。此生既ニ盡キ。次ノ受生ノ緣未ダ來ラズ。此時中間ノ身心アラハル。此身心死有ノ位ニ非ス。生有ノ位ニアラサル故ニ。中有ト名ツクルシヤ。此中有ニ六道差別ス。此人間ノ中ニ。此生緣ツキレハ死スマシト云コトハナラヌシヤ。譬ヘハ高峰ヨリ大石ヲマロハシ墜スニ。中間ニ遮止スヘキ術ノナキカ如クシヤ。旣ニ死シテ直ニ生スルモ。其中間ノ有カアルト云コトシヤ。若シ其父母ニ定テ此子ヲ感スル業アレトモ。若ハ父若ハ母ニ違緣アレハ。暫ク其生緣ノ來ラヌコト有ベシ。或ハ餘緣有テ生處定ラヌコトモ有ベシ。其間ハ此中有ノ姿ニ處スルト云コトシヤ。

新字:聖教ノ中ニ。人ノ死スル時。直ニ中有ノ形アラハル。極善極悪ノ者ヲ除テ。其余ノ者ハ必皆此中有ノ形カ現ストアルシヤ。中有トハ。此生既ニ尽キ。次ノ受生ノ縁未ダ来ラズ。此時中間ノ身心アラハル。此身心死有ノ位ニ非ス。生有ノ位ニアラサル故ニ。中有ト名ツクルシヤ。此中有ニ六道差別ス。此人間ノ中ニ。此生縁ツキレハ死スマシト云コトハナラヌシヤ。譬ヘハ高峰ヨリ大石ヲマロハシ墜スニ。中間ニ遮止スヘキ術ノナキカ如クシヤ。既ニ死シテ直ニ生スルモ。其中間ノ有カアルト云コトシヤ。若シ其父母ニ定テ此子ヲ感スル業アレトモ。若ハ父若ハ母ニ違縁アレハ。暫ク其生縁ノ来ラヌコト有ベシ。或ハ余縁有テ生処定ラヌコトモ有ベシ。其間ハ此中有ノ姿ニ処スルト云コトシヤ。

書き下し

聖教ノ中ニ。人ノ死スル時。直ニ中有ノ形アラハル。極善極悪ノ者ヲ除テ。其余ノ者ハ必皆此中有ノ形カ現ストアルシヤ。中有トハ。此生既ニ尽キ。次ノ受生ノ縁未ダ来ラズ。此時中間ノ身心アラハル。此身心死有ノ位ニ非ス。生有ノ位ニアラサル故ニ。中有ト名ツクルシヤ。此中有ニ六道差別ス。此人間ノ中ニ。此生縁ツキレハ死スマシト云コトハナラヌシヤ。譬ヘハ高峰ヨリ大石ヲマロハシ墜スニ。中間ニ遮止スヘキ術ノナキカ如クシヤ。既ニ死シテ直ニ生スルモ。其中間ノ有カアルト云コトシヤ。若シ其父母ニ定テ此子ヲ感スル業アレトモ。若ハ父若ハ母ニ違縁アレハ。暫ク其生縁ノ来ラヌコト有ベシ。或ハ余縁有テ生処定ラヌコトモ有ベシ。其間ハ此中有ノ姿ニ処スルト云コトシヤ。

現代語訳

聖教の中に、人が死ぬ時、ただちに中有の形が現れる。極善・極悪の者を除いて、その他の者には必ずみなこの中有の形が現れる、とある。中有とは、この生がすでに尽き、次に生を受ける縁がまだ来ない、この時に中間の身心が現れる。この身心は死有(死の瞬間)の位でもなく、生有(生を受ける瞬間)の位でもないので、中有と名づけるのである。この中有に六道の違いがある。この人間の中で、この生の縁が尽きたのに死なないでいようということはできない。たとえば高い峰から大石を転がし落とすと、途中で止める術がないようなものである。すでに死んですぐに生まれるにしても、その中間の有があるということである。もしその父母に定まってこの子を感得する業があっても、父か母に妨げの縁があれば、しばらくその生の縁が来ないことがあるだろう。あるいは他の縁があって生まれる所が定まらないこともあるだろう。その間はこの中有の姿でいる、ということである。

解説

中有とは何かを定義する段である。仏教では生死の流れを、生を受ける瞬間の生有、生きている間の本有、死の瞬間の死有、死後次に生まれるまでの中有の四つに分けて説く。尊者は、生の縁が尽きれば高い峰から転がる大石のように死を止める術はなく、すぐに生まれ変わるとしてもその間に中有があり、父母の側の事情で縁が整わなければしばらく中有のままでいると説明する。極善と極悪の者には中有がないという説も示される。一つの生が終わって次が始まるまでの間という発想は、区切りの時を大切にする考え方にも通じる。

この章句が説くこと

中有生有死有六道輪廻

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