十善法語 / 巻第十・不邪見戒之上
夫人ハ萬物ノ靈ナリ。天地ニ參テ三才ト稱ス。此人ノ此心アル。方寸ノ間ニ隱レテ天地ノ外ヲ該ル。一類定リ有テ萬物ノ理ヲ備フ。現今出來テ古今ノ成敗ニ明了ナル。天地モ此人間有テ上ニ覆ヒ下ニ載ル。萬物モ此人間有テ各各其用アル。神祇モ此人間有テ其德ヲ顯ハス。其來處ヲ尋レハ。幽玄ニシテ知ルヘキ所ナラス。刀ノ鍛冶カ手ヨリ造作スル如ニ非ス。其用處ヲ詳ニスレハ。麁細兼了シテ蹤跡ヲ得難イ。鑿ノ木ヲ穿チ。芒鎌子ノ草ヲ刈ル。大刀ニ大刀ノ用有テ。此ヲ小事ニ用ラレズ。小刀ニ小刀ノ用有テ。此ヲ大事ニ用ラレヌ如ニハ非ス。此心有テ此心ノ貴ヲ知ラス。人趣ニ生ヲ受テ人趣ノ貴ヲ知ラス。悲ムヘキコトソ。
新字:夫人ハ万物ノ霊ナリ。天地ニ参テ三才ト称ス。此人ノ此心アル。方寸ノ間ニ隠レテ天地ノ外ヲ該ル。一類定リ有テ万物ノ理ヲ備フ。現今出来テ古今ノ成敗ニ明了ナル。天地モ此人間有テ上ニ覆ヒ下ニ載ル。万物モ此人間有テ各各其用アル。神祇モ此人間有テ其徳ヲ顕ハス。其来処ヲ尋レハ。幽玄ニシテ知ルヘキ所ナラス。刀ノ鍛冶カ手ヨリ造作スル如ニ非ス。其用処ヲ詳ニスレハ。麁細兼了シテ蹤跡ヲ得難イ。鑿ノ木ヲ穿チ。芒鎌子ノ草ヲ刈ル。大刀ニ大刀ノ用有テ。此ヲ小事ニ用ラレズ。小刀ニ小刀ノ用有テ。此ヲ大事ニ用ラレヌ如ニハ非ス。此心有テ此心ノ貴ヲ知ラス。人趣ニ生ヲ受テ人趣ノ貴ヲ知ラス。悲ムヘキコトソ。
書き下し
夫人ハ万物ノ霊ナリ。天地ニ参テ三才ト称ス。此人ノ此心アル。方寸ノ間ニ隠レテ天地ノ外ヲ該ル。一類定リ有テ万物ノ理ヲ備フ。現今出来テ古今ノ成敗ニ明了ナル。天地モ此人間有テ上ニ覆ヒ下ニ載ル。万物モ此人間有テ各各其用アル。神祇モ此人間有テ其徳ヲ顕ハス。其来処ヲ尋レハ。幽玄ニシテ知ルヘキ所ナラス。刀ノ鍛冶カ手ヨリ造作スル如ニ非ス。其用処ヲ詳ニスレハ。麁細兼了シテ蹤跡ヲ得難イ。鑿ノ木ヲ穿チ。芒鎌子ノ草ヲ刈ル。大刀ニ大刀ノ用有テ。此ヲ小事ニ用ラレズ。小刀ニ小刀ノ用有テ。此ヲ大事ニ用ラレヌ如ニハ非ス。此心有テ此心ノ貴ヲ知ラス。人趣ニ生ヲ受テ人趣ノ貴ヲ知ラス。悲ムヘキコトソ。
現代語訳
そもそも人は万物の霊長である。天地に並んで三才と称される。この人にこの心がある。わずか一寸四方の胸の内に隠れていながら、天地の外までも包む。一つの種類として定まりがあって、万物の道理を備える。今ここに生まれ出ていながら、古今の成功と失敗に明らかである。天地もこの人間があって、上に覆い下に載せる。万物もこの人間があって、それぞれにその用がある。神々もこの人間があって、その徳を現す。その来るところを尋ねれば、奥深くて知ることのできるところではない。刀が鍛冶の手から作り出されるようなものではない。その働くところを詳しく見れば、粗大なものも微細なものも兼ねて知り尽くして、その跡をとらえることができない。鑿が木に穴をあけ、鎌が草を刈り、大刀には大刀の用があってこれを小さな事には使えず、小刀には小刀の用があってこれを大きな事には使えない、というようなものではない。この心がありながらこの心の尊さを知らず、人の境涯に生を受けながら人の境涯の尊さを知らない。悲しむべきことである。
解説

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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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