師導古典を学びたいすべての人に

十善法語 / 巻第十・不邪見戒之上

安永三年甲午四月八日示衆。師云。第十ハ不邪見戒シヤ。邪ハ正ニ對セル名。シマニヒカミタルコト。見ハミルト云字。ココハ目デミルデハナイ。心ニ見定ル處アルコトシヤ。此見處カヨコ道ヘ往タルヲ邪見ト云。此邪見ノ怖ルヘキヲ知テ。正知見ニ隨順スルヲ不邪見ト云。法有テ此不邪見ヲ護スルヲ。不邪見戒ト云。此邪見數多ケレドモ。要ヲ取テ言ヘハ。斷常ノ二見ニ過ヌ。

新字:安永三年甲午四月八日示衆。師云。第十ハ不邪見戒シヤ。邪ハ正ニ対セル名。シマニヒカミタルコト。見ハミルト云字。ココハ目デミルデハナイ。心ニ見定ル処アルコトシヤ。此見処カヨコ道ヘ往タルヲ邪見ト云。此邪見ノ怖ルヘキヲ知テ。正知見ニ随順スルヲ不邪見ト云。法有テ此不邪見ヲ護スルヲ。不邪見戒ト云。此邪見数多ケレドモ。要ヲ取テ言ヘハ。断常ノ二見ニ過ヌ。

書き下し

安永三年甲午四月八日示衆。師云。第十ハ不邪見戒シヤ。邪ハ正ニ対セル名。シマニヒカミタルコト。見ハミルト云字。ココハ目デミルデハナイ。心ニ見定ル処アルコトシヤ。此見処カヨコ道ヘ往タルヲ邪見ト云。此邪見ノ怖ルヘキヲ知テ。正知見ニ随順スルヲ不邪見ト云。法有テ此不邪見ヲ護スルヲ。不邪見戒ト云。此邪見数多ケレドモ。要ヲ取テ言ヘハ。断常ノ二見ニ過ヌ。

現代語訳

安永三年(一七七四)甲午四月八日、大衆に示された。師は言われた。第十は不邪見戒である。邪とは正に対する名で、よこしまに偏り曲がったことである。見とは「みる」という字である。ここでは目で見ることではない。心に見定めるところがあることである。この見定めるところが横道へ行ってしまったものを邪見と言う。この邪見の恐ろしさを知って、正しい知見に従うことを不邪見と言う。法があってこの不邪見を護ることを、不邪見戒と言う。この邪見は数多いけれども、要点をつかんで言えば、断見と常見の二つの見方を出ない。

解説

十善の最後、不邪見戒の講義の冒頭である。尊者は「見」を目で見ることではなく、心の中で物事を見定めた立場だと定義する。その立場が横道にそれたものが邪見であり、数は多くても、死ねばすべて無くなるとする断見と、人は常に人のまま変わらないとする常見の二つに集約されるという。以後二巻にわたる議論の見取り図がここで示される。行いより先に、ものの見方そのものを戒の対象にしている点が、この戒の特色である。私たちの判断も、前提となる見方で大きく左右される。

この章句が説くこと

不邪見邪見断見常見正知見

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる