十善法語 / 巻第十・不邪見戒之上
斷見ニイロイロ有レドモ。マヅ善ヲ爲シテ善ノ報ナク。惡ヲ作シテ惡ノ報ナク。神ト云モノ。佛ト云モノ。今現ニ見ルヘキナラネバ。コレモナキコトト思ヒ定ムルヲ。斷見ト云。常見モ種種ナレドモ。且ク人ハ常ニ人トナル。畜ハ常ニ畜トナル。人ノ畜生トナルヘキ理ナク。畜生蟲蟻ノ類カ人トナルヘキ理モナキト思ヒ定ムルヲ。常見ト云。正知見ト云ハ甚深ナレドモ。且クカウシヤ。佛菩薩モ世ニマシマス。賢人聖者モ有ルベク。神祇モ目ニコソ見エネ有ルヘク。善ヲ作セハ決定其報有リ。惡ヲ作セハ決定ソノ報有ルト信スレハ。此戒ハ全キシヤ。
新字:断見ニイロイロ有レドモ。マヅ善ヲ為シテ善ノ報ナク。悪ヲ作シテ悪ノ報ナク。神ト云モノ。仏ト云モノ。今現ニ見ルヘキナラネバ。コレモナキコトト思ヒ定ムルヲ。断見ト云。常見モ種種ナレドモ。且ク人ハ常ニ人トナル。畜ハ常ニ畜トナル。人ノ畜生トナルヘキ理ナク。畜生虫蟻ノ類カ人トナルヘキ理モナキト思ヒ定ムルヲ。常見ト云。正知見ト云ハ甚深ナレドモ。且クカウシヤ。仏菩薩モ世ニマシマス。賢人聖者モ有ルベク。神祇モ目ニコソ見エネ有ルヘク。善ヲ作セハ決定其報有リ。悪ヲ作セハ決定ソノ報有ルト信スレハ。此戒ハ全キシヤ。
書き下し
断見ニイロイロ有レドモ。マヅ善ヲ為シテ善ノ報ナク。悪ヲ作シテ悪ノ報ナク。神ト云モノ。仏ト云モノ。今現ニ見ルヘキナラネバ。コレモナキコトト思ヒ定ムルヲ。断見ト云。常見モ種種ナレドモ。且ク人ハ常ニ人トナル。畜ハ常ニ畜トナル。人ノ畜生トナルヘキ理ナク。畜生虫蟻ノ類カ人トナルヘキ理モナキト思ヒ定ムルヲ。常見ト云。正知見ト云ハ甚深ナレドモ。且クカウシヤ。仏菩薩モ世ニマシマス。賢人聖者モ有ルベク。神祇モ目ニコソ見エネ有ルヘク。善ヲ作セハ決定其報有リ。悪ヲ作セハ決定ソノ報有ルト信スレハ。此戒ハ全キシヤ。
現代語訳
断見にもいろいろあるけれども、まず、善を行っても善の報いはなく、悪を行っても悪の報いはなく、神というもの、仏というものも、今目の前に見えるものではないから、これも無いことだと思い定めるのを断見と言う。常見もさまざまであるけれども、ひとまず言えば、人は常に人に生まれ、畜生は常に畜生に生まれる、人が畜生になる道理はなく、畜生や虫や蟻の類が人になる道理もない、と思い定めるのを常見と言う。正しい知見というのは甚だ深いものだが、ひとまずはこうである。仏や菩薩も世におられる。賢人や聖者もいるはずであり、神々も目にこそ見えないがおられるはずである。善を行えば必ずその報いがあり、悪を行えば必ずその報いがあると信じるなら、この戒は全うされるのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『十善法語』巻第十二・不邪見戒之下善悪報応ノ空シカラヌコトハ。古今聖賢ノ通義シヤ。易ニ積善ノ家ニハ必ス余慶アリ。積不善ノ家ニハ必ス余殃アリト。看ヨ。世間俗中スラカクアルシヤ。此言カ虚ナラスハ。業果アルモ信セラルル。正知見ニモ近カルヘキシヤ。仮令未タ三世アルコトヲ知ル地位ニ至ラスドモ。邪見トハ云レヌシヤ。又孔子ノ家語ニ。子貢問於孔子曰。死者有知乎。将無知乎。子曰。吾欲言死之有知。将恐孝子順孫妨生以送死。吾欲言死之無知。将恐不孝之子弃其親不葬。賜欲知死者有知与無知。非今之急。後自知之トアル。此等面白キコトシヤ。経中ニモ世尊ハ十八難ヲ答タマハストアル。死後去コトアリ去コトナキハ。自知セシムヘキ趣シヤ。
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『修証義』第一章 総序今の世に因果を知らず。業報を明らめず。三世を知らず、善悪を弁へざる邪見の党侶には群すべからず。大凡因果の道理、歴然として私なし。造悪の者は堕ち。修善の者は陞る、毫釐も貳はざるなり。若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
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『墨子』法儀昔の聖王、禹・湯・文・武は、兼ねて天下の百姓を愛し、率いて以て天を尊び鬼に事う。其の人を利すること多し、故に天、之を福し、立てて天子と為さしめ、天下の諸侯、皆な賓として之に事う。暴王、桀・紂・幽・厲は、兼ねて天下の百姓を惡み、率いて以て天を詬り鬼を侮る。其の人を賊うこと多し、故に天、之を禍し、遂に其の國家を失わしめ、身死して天下に僇と為り、後世の子孫、之を毁り、今に至るまで息まず。故に不善を為して以て禍を得る者は、桀・紂・幽・厲是れなり。人を愛し人を利して以て福を得る者は、禹・湯・文・武是れなり。人を愛し人を利して以て福を得る者は有り、人を惡み人を賊うて以て禍を得る者も亦た有り。
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説苑・權謀孔子齊景公と坐す。左右白して曰く、「周使來りて廟燔くと言ふ」と。齊景公出でて問ひて曰く、「何の廟ぞや」と。孔子曰く、「是れ釐王の廟なり」と。景公曰く、「何を以て之を知る」と。孔子曰く、「詩に云ふ、『皇皇たる上帝、其の命忒はず』と。天の人に與するや、必ず徳有るに報ゆ。禍も亦た之の如し。夫れ釐王は文武の制を變じて玄黃の宮室を作り、輿馬奢侈にして振ふべからず。故に天其の廟に殃す。是を以て之を知る」と。景公曰く、「天何ぞ其の身に殃せずして其の廟に殃するや」と。子曰く、「天は文王の故を以てなり。若し其の身に殃せば、文王の祀、無乃ち絶えんか。故に其の廟に殃して以て其の過を章かにす」と。左右入りて報じて曰く、「周の釐王の廟なり」と。景公大いに驚き、起ちて拜して曰く、「善き哉、聖人の智、豈に大ならざらんや」と。
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風姿花伝・第七 別紙口伝一、抑、因果とて、よきあしき時のあるも、公案を尽して見るに、ただめづらしき、めづらしからぬの二つなり。おなじ上手にておなじ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつる事の、今またおもしろくもなき時のあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、わるしと見るなり。その後またよき時のあるは、先にわるかりつるものをと思ふ心、まためづらしきに還りて、おもしろくなるなり。されば、この道をきはめをはりて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義をきはめて、よろづにめづらしき理をわれと知るならでは、花はあるべからず。経にいはく、善悪不二、邪正一如とあり。本来より、よきあしきとは何をもて定むべきや。ただ時によりて用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす。この風体の品々も、当世の衆人諸所にわたりて、その時のあまねき好みによりて取出す風体、これ用足る為の花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ、人々心々の花なり。いづれをまこととせんや。ただ時に用ゆるをもて花と知るべし。
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