十善法語 / 巻第八・不貪欲戒
古今ノ經傳諸子百家ノ教モ。全ク不貪欲戒ノ儀シヤ。詩ノ唐風ニ。好樂勿荒。良士瞿瞿トアル。世間ノ法トシテ。樂ヲモ好ムヘキナレトモ。此ニ時日ヲ費スハ愚シヤ。一切ノ歌舞作樂。能狂言茶香。諸ノ遊事。好メハ好ムニ隨テ其中ニ味ガ生スル。ソノ中ニ巧ガ生スル。此ヲ荒ト名ツクル。此味ガ生シ巧ガ生シテ止コトナケレハ。德義ヲソコナフニ至ルシヤ。易ニ天道虧盈而益謙。地道變滿而福謙。人道惡盈而好謙トアル。此中ニ天地神人ノ四。其道別アルヤウナレトモ。畢竟シテ云ハハ。是不貪欲戒ガ天ニ在テハ天ノ道トナリ。地ニ在テハ地ノ道トナリ。鬼神ニ在テハ鬼神ノ道トナリ人間ニ在テハ人ノ道トナルシヤ。書經ニ內勿荒色外勿荒禽トアル。世ニ在テハ男女婚嫁モアルベク。武ヲ講スルコトモ無レバカナハヌナレトモ。過ハ過失ヲ生スルシヤ。
新字:古今ノ経伝諸子百家ノ教モ。全ク不貪欲戒ノ儀シヤ。詩ノ唐風ニ。好楽勿荒。良士瞿瞿トアル。世間ノ法トシテ。楽ヲモ好ムヘキナレトモ。此ニ時日ヲ費スハ愚シヤ。一切ノ歌舞作楽。能狂言茶香。諸ノ遊事。好メハ好ムニ随テ其中ニ味ガ生スル。ソノ中ニ巧ガ生スル。此ヲ荒ト名ツクル。此味ガ生シ巧ガ生シテ止コトナケレハ。徳義ヲソコナフニ至ルシヤ。易ニ天道虧盈而益謙。地道変満而福謙。人道悪盈而好謙トアル。此中ニ天地神人ノ四。其道別アルヤウナレトモ。畢竟シテ云ハハ。是不貪欲戒ガ天ニ在テハ天ノ道トナリ。地ニ在テハ地ノ道トナリ。鬼神ニ在テハ鬼神ノ道トナリ人間ニ在テハ人ノ道トナルシヤ。書経ニ内勿荒色外勿荒禽トアル。世ニ在テハ男女婚嫁モアルベク。武ヲ講スルコトモ無レバカナハヌナレトモ。過ハ過失ヲ生スルシヤ。
書き下し
古今ノ経伝諸子百家ノ教モ。全ク不貪欲戒ノ儀シヤ。詩ノ唐風ニ。好楽勿荒。良士瞿瞿トアル。世間ノ法トシテ。楽ヲモ好ムヘキナレトモ。此ニ時日ヲ費スハ愚シヤ。一切ノ歌舞作楽。能狂言茶香。諸ノ遊事。好メハ好ムニ随テ其中ニ味ガ生スル。ソノ中ニ巧ガ生スル。此ヲ荒ト名ツクル。此味ガ生シ巧ガ生シテ止コトナケレハ。徳義ヲソコナフニ至ルシヤ。易ニ天道虧盈而益謙。地道変満而福謙。人道悪盈而好謙トアル。此中ニ天地神人ノ四。其道別アルヤウナレトモ。畢竟シテ云ハハ。是不貪欲戒ガ天ニ在テハ天ノ道トナリ。地ニ在テハ地ノ道トナリ。鬼神ニ在テハ鬼神ノ道トナリ人間ニ在テハ人ノ道トナルシヤ。書経ニ内勿荒色外勿荒禽トアル。世ニ在テハ男女婚嫁モアルベク。武ヲ講スルコトモ無レバカナハヌナレトモ。過ハ過失ヲ生スルシヤ。
現代語訳
古今の経伝、諸子百家の教えも、まったく不貪欲戒の意味である。詩経の唐風に、「楽しみを好んでも溺れるな。良き士は慎み深い」とある。世間の法として、楽しみも好んでよいけれども、これに時日を費やすのは愚かである。あらゆる歌舞音楽、能・狂言・茶・香などの諸々の遊びごとは、好めば好むにつれて、その中に味わいが生じる。その中に巧みさが生じる。これを荒(溺れる)と名づける。この味わいが生じ、巧みさが生じて止むことがなければ、徳義を損なうに至るのである。易に、「天の道は満ちたものを欠いて謙虚なものを益す。地の道は満ちたものを変えて謙虚なものに福を与える。人の道は満ちたものを憎んで謙虚なものを好む」とある。この中に天・地・神・人の四つがあり、その道には区別があるようだけれども、つまるところ言えば、この不貪欲戒が、天にあっては天の道となり、地にあっては地の道となり、鬼神にあっては鬼神の道となり、人間にあっては人の道となるのである。書経に、「内には色に溺れるな、外には狩りに溺れるな」とある。世にあっては男女の婚姻もあるべきであり、武を講じることもなくてはならないけれども、度を過ごせば過失を生じるのである。
解説
この章句が説くこと
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孔子家語・論禮子夏、孔子に侍坐して曰わく、「敢えて問う、詩に云う、『愷悌の君子は、民の父母』と。何如なれば斯れ民の父母と謂うべきか。」孔子曰わく、「夫れ民の父母は、必ず礼楽の源に達し、以て五至を致し三無を行い、以て天下に横たわる。四方に敗有れば、必ず先んじてこれを知る。此れを民の父母と謂う。」
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『呻吟語』外篇・治道・民の父母『詩』に云ふ、「樂しき君子は、民の父母」と。又た曰く、「豈弟の君子は、民の父母」と。君子は『詩』に觀て、政を為すの道を知るなり。