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十善法語 / 巻第七・不兩舌戒

十方諸佛コトコトク一法身シヤ。此土ニ釋迦世尊ヲ師トスル。一切諸佛ノ化儀ニ異ナラヌ。他方ノ佛土モソノ儀多ク此土ニ異ナラヌト云コトシヤ。佛勅ニ法ニ依テ人ニ依ラヌ。智ニ依テ識ニ依ラヌシヤ。義ニ依テ語ニ依ラヌ。了義經ニ依テ不了義經ニ依ラヌトアル。智度論ニ。我釋迦佛ノ法別ノ菩薩僧ナシ。文殊彌勒モ聲聞衆中ニ入テ次第ニ坐スルトアル。東西南北千里百里ノ外ヨリ來ル者モ。悉ク水乳ノ相合スル如ク。互ニ乖諍ナキシヤ。此意和敬ハ。賢聖ノ歡喜奉行スル處テ。末世凡夫僧ノ仰キ則トル所シヤ。タトヒ底下ノ者ト雖トモ。此意和敬闕ルコトナケレハ。直ニ聖儀シヤ。今時所宗モ異ニ。所學モ區ニナリ。人我相ニ隨順スル。唯細心護持ノ人ノミアリテ。自カラ欺カヌ地位ニ到ルヘキシヤ。

新字:十方諸仏コトコトク一法身シヤ。此土ニ釈迦世尊ヲ師トスル。一切諸仏ノ化儀ニ異ナラヌ。他方ノ仏土モソノ儀多ク此土ニ異ナラヌト云コトシヤ。仏勅ニ法ニ依テ人ニ依ラヌ。智ニ依テ識ニ依ラヌシヤ。義ニ依テ語ニ依ラヌ。了義経ニ依テ不了義経ニ依ラヌトアル。智度論ニ。我釈迦仏ノ法別ノ菩薩僧ナシ。文殊弥勒モ声聞衆中ニ入テ次第ニ坐スルトアル。東西南北千里百里ノ外ヨリ来ル者モ。悉ク水乳ノ相合スル如ク。互ニ乖諍ナキシヤ。此意和敬ハ。賢聖ノ歓喜奉行スル処テ。末世凡夫僧ノ仰キ則トル所シヤ。タトヒ底下ノ者ト雖トモ。此意和敬闕ルコトナケレハ。直ニ聖儀シヤ。今時所宗モ異ニ。所学モ区ニナリ。人我相ニ随順スル。唯細心護持ノ人ノミアリテ。自カラ欺カヌ地位ニ到ルヘキシヤ。

書き下し

十方諸仏コトコトク一法身シヤ。此土ニ釈迦世尊ヲ師トスル。一切諸仏ノ化儀ニ異ナラヌ。他方ノ仏土モソノ儀多ク此土ニ異ナラヌト云コトシヤ。仏勅ニ法ニ依テ人ニ依ラヌ。智ニ依テ識ニ依ラヌシヤ。義ニ依テ語ニ依ラヌ。了義経ニ依テ不了義経ニ依ラヌトアル。智度論ニ。我釈迦仏ノ法別ノ菩薩僧ナシ。文殊弥勒モ声聞衆中ニ入テ次第ニ坐スルトアル。東西南北千里百里ノ外ヨリ来ル者モ。悉ク水乳ノ相合スル如ク。互ニ乖諍ナキシヤ。此意和敬ハ。賢聖ノ歓喜奉行スル処テ。末世凡夫僧ノ仰キ則トル所シヤ。タトヒ底下ノ者ト雖トモ。此意和敬闕ルコトナケレハ。直ニ聖儀シヤ。今時所宗モ異ニ。所学モ区ニナリ。人我相ニ随順スル。唯細心護持ノ人ノミアリテ。自カラ欺カヌ地位ニ到ルヘキシヤ。

現代語訳

十方の諸仏はことごとく一つの法身である。この国土で釈迦世尊を師とするのは、一切の諸仏の教化のありさまと異ならない。他方の仏国土もそのありさまは多くこの国土と異ならないということだ。仏の勅に、法に依って人に依らない。智に依って識に依らない。義に依って語に依らない。了義経に依って不了義経に依らない、とある。智度論に、我が釈迦仏の法には別に菩薩僧はない。文殊や弥勒も声聞の衆の中に入って順序どおりに坐る、とある。東西南北、千里百里の外から来る者も、ことごとく水と乳が混ざり合うように、互いに争い背くことがないのである。この意和敬は、賢聖が歓喜して奉じ行うところであって、末世の凡夫の僧が仰いで手本とするところである。たとえ最も下の者であっても、この意和敬を欠くことがなければ、そのまま聖なるありさまである。今どきは宗とするところも異なり、学ぶところもまちまちになって、人我の相に随順している。ただ細やかな心で護持する人だけが、みずから欺かない境地に到るはずである。

解説

意和敬の根拠として、仏が遺したとされる四依、法に依って人に依らず、智に依って識に依らず、義に依って語に依らず、了義経に依って不了義経に依らず、を引く。誰が言ったかより何が正しいか、言葉の表面より意味を拠り所とせよということである。大智度論は、文殊や弥勒のような大菩薩でさえ、特別扱いされず声聞の僧の列に順に坐ったと伝える。遠くから来た者どうしも水と乳のように溶け合う。肩書きでなく法を拠り所にすることが、出自の違う人々を一つにする。

この章句が説くこと

意和敬四依法身和合智度論文殊

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