十善法語 / 巻第七・不兩舌戒
其後世尊阿難ニ告タマフ。勝慧河邊茲芻住處近隣ノ者大善利ヲ得ト。阿難尊者前事ヲ鑑ミテ密ニ告知シム。勝慧河邊ノ茲蒭。阿難ノ意ヲ察シテ密ニ祇園精舍ニ詣ス。其時世尊初夜初禪ニ入タマフ。勝慧河邊ノ茲芻。世尊入定。言語スヘキ時ナラヌヲ知テ。ミナ初禪ニ入ル。世尊乃至第四禪ニ入。乃至非想定ニ入タマフ。彼茲芻乃至第四禪ニ入リ。乃至非想定ニ入ル。世尊乃至自定ニ入テ。諸聲聞緣覺ノハカリ知ラヌ境界ニ住シタマフ。彼茲芻念言ス。世尊今自定ニ住シタマフ。我等モ自定ニ住スヘシト。各各自定ニ住ス。乃至天明ニ至ルマテ一語モ交ヘタマハス。如是乃至諸ノ茲芻還リ去ル時。阿難尊者問奉ル。世尊頻頻ニ勝慧河邊ノ茲芻ヲ讚嘆シタマフ。今此ニ來ル。慰問ヲ蒙ラヌハ如何ナル義ソト。世尊答タマフ。我已ニ彼諸人ト共ニ語シ訖レリ。聖語聖法律ニ依テ共相安慰セリト。
新字:其後世尊阿難ニ告タマフ。勝慧河辺茲芻住処近隣ノ者大善利ヲ得ト。阿難尊者前事ヲ鑑ミテ密ニ告知シム。勝慧河辺ノ茲蒭。阿難ノ意ヲ察シテ密ニ祇園精舎ニ詣ス。其時世尊初夜初禅ニ入タマフ。勝慧河辺ノ茲芻。世尊入定。言語スヘキ時ナラヌヲ知テ。ミナ初禅ニ入ル。世尊乃至第四禅ニ入。乃至非想定ニ入タマフ。彼茲芻乃至第四禅ニ入リ。乃至非想定ニ入ル。世尊乃至自定ニ入テ。諸声聞縁覚ノハカリ知ラヌ境界ニ住シタマフ。彼茲芻念言ス。世尊今自定ニ住シタマフ。我等モ自定ニ住スヘシト。各各自定ニ住ス。乃至天明ニ至ルマテ一語モ交ヘタマハス。如是乃至諸ノ茲芻還リ去ル時。阿難尊者問奉ル。世尊頻頻ニ勝慧河辺ノ茲芻ヲ讃嘆シタマフ。今此ニ来ル。慰問ヲ蒙ラヌハ如何ナル義ソト。世尊答タマフ。我已ニ彼諸人ト共ニ語シ訖レリ。聖語聖法律ニ依テ共相安慰セリト。
書き下し
其後世尊阿難ニ告タマフ。勝慧河辺茲芻住処近隣ノ者大善利ヲ得ト。阿難尊者前事ヲ鑑ミテ密ニ告知シム。勝慧河辺ノ茲蒭。阿難ノ意ヲ察シテ密ニ祇園精舎ニ詣ス。其時世尊初夜初禅ニ入タマフ。勝慧河辺ノ茲芻。世尊入定。言語スヘキ時ナラヌヲ知テ。ミナ初禅ニ入ル。世尊乃至第四禅ニ入。乃至非想定ニ入タマフ。彼茲芻乃至第四禅ニ入リ。乃至非想定ニ入ル。世尊乃至自定ニ入テ。諸声聞縁覚ノハカリ知ラヌ境界ニ住シタマフ。彼茲芻念言ス。世尊今自定ニ住シタマフ。我等モ自定ニ住スヘシト。各各自定ニ住ス。乃至天明ニ至ルマテ一語モ交ヘタマハス。如是乃至諸ノ茲芻還リ去ル時。阿難尊者問奉ル。世尊頻頻ニ勝慧河辺ノ茲芻ヲ讃嘆シタマフ。今此ニ来ル。慰問ヲ蒙ラヌハ如何ナル義ソト。世尊答タマフ。我已ニ彼諸人ト共ニ語シ訖レリ。聖語聖法律ニ依テ共相安慰セリト。
現代語訳
その後、世尊は阿難に告げられた。勝慧河のほとりの比丘たちの住処の近隣の者は、大いなる善い利益を得ている、と。阿難尊者は前の事を鑑みて、ひそかに知らせた。勝慧河のほとりの比丘たちは、阿難の意を察して、ひそかに祇園精舎に詣でた。そのとき世尊は初夜に初禅に入られた。勝慧河のほとりの比丘たちは、世尊が定に入られ、言葉を交わすべき時でないことを知って、みな初禅に入った。世尊はさらに第四禅に入り、さらに非想定に入られた。かの比丘たちもさらに第四禅に入り、さらに非想定に入った。世尊はさらにご自身の定に入って、諸々の声聞や縁覚の測り知れない境界に住された。かの比丘たちは心に思った。世尊は今ご自身の定に住しておられる。我らも自分の定に住すべきである、と。それぞれ自分の定に住した。こうして夜明けに至るまで一言も交わされなかった。このようにして比丘たちが帰り去るとき、阿難尊者はお尋ねした。世尊はしきりに勝慧河のほとりの比丘たちを讃嘆されました。今ここに来たのに、慰めの言葉をかけられないのはどういうわけですか、と。世尊は答えられた。私はもう彼らと共に語り終えた。聖なる言葉、聖なる法と律によって、共に慰め合ったのだ、と。
解説

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