十善法語 / 巻第七・不兩舌戒
又漢武帝ノ小子ヲ昭帝ト云。漢書ニ。武帝元始三年。昭帝身妊。十四月生鈎弋宮。上曰。昔聞堯十四月而生。今鉤弋亦然。通命其所生門曰堯母門。常言類我。又感其生與衆異。心欲立焉以其年稱母少。猶預久之。鈎弋倢伃從幸甘泉。有過見譴。以憂死。年八歲卽皇帝位壯大多知。年二十餘崩ト云。此モ前ノ烏仗那國ノ緣ニ準シテ見ハ。此昭帝ノ早世モ。其母鈎弋夫人ノ良死ヲ得ヌニ由ナルヘシ。總シテ其子ヲ貴セント欲セハ其母ヲ安ンスヘシ。其子孫ヲ福セント欲セハ。其民ヲ撫育スヘシ。此ガ此戒ノ趣ナルコトシヤ。
新字:又漢武帝ノ小子ヲ昭帝ト云。漢書ニ。武帝元始三年。昭帝身妊。十四月生鈎弋宮。上曰。昔聞堯十四月而生。今鉤弋亦然。通命其所生門曰堯母門。常言類我。又感其生与衆異。心欲立焉以其年称母少。猶預久之。鈎弋倢伃従幸甘泉。有過見譴。以憂死。年八歳即皇帝位壮大多知。年二十余崩ト云。此モ前ノ烏仗那国ノ縁ニ準シテ見ハ。此昭帝ノ早世モ。其母鈎弋夫人ノ良死ヲ得ヌニ由ナルヘシ。総シテ其子ヲ貴セント欲セハ其母ヲ安ンスヘシ。其子孫ヲ福セント欲セハ。其民ヲ撫育スヘシ。此ガ此戒ノ趣ナルコトシヤ。
書き下し
又漢武帝ノ小子ヲ昭帝ト云。漢書ニ。武帝元始三年。昭帝身妊。十四月生鈎弋宮。上曰。昔聞堯十四月而生。今鉤弋亦然。通命其所生門曰堯母門。常言類我。又感其生与衆異。心欲立焉以其年称母少。猶預久之。鈎弋倢伃従幸甘泉。有過見譴。以憂死。年八歳即皇帝位壮大多知。年二十余崩ト云。此モ前ノ烏仗那国ノ縁ニ準シテ見ハ。此昭帝ノ早世モ。其母鈎弋夫人ノ良死ヲ得ヌニ由ナルヘシ。総シテ其子ヲ貴セント欲セハ其母ヲ安ンスヘシ。其子孫ヲ福セント欲セハ。其民ヲ撫育スヘシ。此ガ此戒ノ趣ナルコトシヤ。
現代語訳
また、漢の武帝の末の子を昭帝という。漢書に次のようにある。武帝の元始三年、昭帝を身ごもって十四か月で鈎弋宮に生まれた。武帝は言った。昔、堯は十四か月で生まれたと聞く。今この鈎弋の子もそうだ、と。そこで生まれた宮の門を名づけて堯母門とした。常に、自分に似ていると言った。またその生まれが人々と異なることに感じて、心では太子に立てようと思ったが、その年が幼く母が若いことから、長いあいだためらっていた。鈎弋婕妤は甘泉宮への行幸に従い、過ちがあって譴責され、憂いのうちに死んだ。昭帝は八歳で皇帝の位につき、成長して知恵が多かったが、二十余歳で崩じた、と。これも前の烏仗那国の縁に準じて見れば、この昭帝の早世も、その母鈎弋夫人がよい死に方をできなかったことによるのであろう。総じて、その子を尊くしようと思うなら、その母を安んじるべきである。その子孫に福を与えようと思うなら、その民を撫で育てるべきである。これがこの戒の趣なのである。
解説

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史記 外戚世家是に於て左右の群臣武帝の意の少子を立てんと欲するを知る。後数日、帝鉤弋夫人を譴責す。夫人簪珥を脱ぎて叩頭す。帝曰く、「引き持ちて去り、掖庭の獄に送れ」と。夫人還顧す、帝曰く、「趣やかに行け、女は活くるを得ず」と。夫人雲陽宮に死す。時に暴風塵を揚げ、百姓感傷す。使者夜棺を持ちて往きて之を葬り、其の処を封識す。其の後帝間居し、左右に問ひて曰く、「人言ふこと云何」と。左右対へて曰く、「人言ふ、且に其の子を立てんとするに、何ぞ其の母を去るやと」と。帝曰く、「然り。是れ児曹愚人の知る所に非ざるなり。往古国家の乱るる所以は、主少くして母壮なるに由るなり。女主独り居りて驕蹇、淫乱自ら恣にし、能く禁ずる莫きなり。女は呂后を聞かずや」と。故に諸々の武帝の為に子を生む者は、男女と無く、其の母譴死せざるは無し、豈に賢聖に非ずと謂ふべけんや。昭然として遠く見、後世の為に計慮す、固より浅聞愚儒の及ぶ所に非ざるなり。謚して「武」と為す、豈に虚ならんや。
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『長短経』君徳夫れ漢の昭は、父は武王に非ず、母は邑姜に非ず。養うは惟だ蓋主のみ、相は則ち桀・光なり。保に仁孝の質無く、佐に隆平の治無し。所謂深宮の中に生まれ、婦人の手に長ずるなり。然り而して徳は性と成り、行は体と并ぶ。年二七に在りて、早く夙達を知る。燕書の詐りを発き、霍光の誠を亮とす。豈に将に金縢を啓き国史を信じて、而る後に乃ち寤めんとするや。成・昭をして年を鈞しくして立ち、世を易えて化し、臣を貿えて治め、楽を換えて歌わしめば、則ち漢も独り少なからず、周も独り多からざらん」と。〔大将軍霍光及び上官桀、政を秉る。桀、光の寵を害し、之を誅せんと欲す。乃ち詐りて帝の兄燕旦の上書を為り、光の上林に行きて蹕を称する等の事を称す。帝、信ぜず。〕
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史記 外戚世家褚先生曰く、丈夫は龍変す。伝に曰く、「蛇化して龍と為るも、其の文を変ぜず。家化して国と為るも、其の姓を変ぜず」と。丈夫当時富貴なれば、百悪滅除し、光耀栄華、貧賤の時何ぞ之を累すに足らんや。武帝の時、夫人尹婕妤を幸す。邢夫人は娙娥と号す、衆人之を「娙何」と謂ふ。娙何の秩は中二千石に比し、容華の秩は二千石に比し、婕妤の秩は列侯に比す。常に婕妤より遷りて皇后と為る。尹夫人と邢夫人と同時に并びに幸せられ、詔有りて相見るを得ず。尹夫人自ら武帝に請ひ、邢夫人を望見せんことを願ふ、帝之を許す。即ち他の夫人をして飾らしめ、従ふ御者数十人、邢夫人と為りて来たり前ましむ。尹夫人前みて之を見て、曰く、「此れ邢夫人の身に非ざるなり」と。帝曰く、「何を以て之を言ふ」と。対へて曰く、「其の身貌形状を視るに、以て人主に当たるに足らざるなり」と。是に於て帝乃ち詔して邢夫人をして故衣を衣て、独身にて来たり前ましむ。尹夫人之を望み見て、曰く、「此れ真に是なり」と。是に於て乃ち低頭し俛して泣き、自ら其の如かざるを痛む。諺に曰く、「美女室に入れば、悪女の仇なり」と。褚先生曰く、浴するは必ずしも江海ならず、之を要するに垢を去るなり。馬は必ずしも騏驥ならず、之を要するに善く走るなり。士は必ずしも世に賢ならず、之を要するに道を知るなり。女は必ずしも貴種ならず、之を要するに貞好なり。伝に曰く、「女は美悪と無く、室に入れば妬まる。士は賢不肖と無く、朝に入れば嫉まる」と。美女は、悪女の仇なり。豈に然らずや。鉤弋夫人は姓は趙氏、河間の人なり。武帝に幸せらるるを得て、子一人を生む、昭帝是なり。武帝年七十にして、乃ち昭帝を生む。昭帝立つ時、年五歳のみ。衛太子廃せられて後、未だ復た太子を立てず。而して燕王旦上書して、国を帰して入りて宿衛せんことを願ふ。武帝怒り、立ちどころに其の使者を北闕に斬る。上甘泉宮に居り、画工を召して周公の成王を負ふを図画せしむ。
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『十善法語』巻第七・不兩舌戒ヨク此戒ヲ護持スル者ハ。在家ニモセヨ。出家ニモセヨ。道カ身心ノ中ニ備ハルシヤ。初ニ口過ヲ守テ両舌離間語セヌ。世ニ処シテ自ラ嫌疑ナイ。他ノ親好ヲ見テ喜ブ。他ノ不和合ヲ見テ憂戚スル。此心二六時中相応スル。事ニフレテ相違セヌ。時ニ随テ增長スルシヤ。俗中ニ在テ。先父子ノ間嫌疑ナイ。父子嫌疑ナケレハ。父ハ自ラ慈。母ハ自ラ悲。此ニ定マツタコトシヤ。此慈悲外ヨリ来ルデナイ。父母トナレバ縁起法トシテ如是シヤ。子ハ自ラ孝行ヲ尽ス。此ニ定タコトシヤ。此孝外ヨリ来ルデナイ。子トナレハ縁起法トシテ如是シヤ。漢ノ世ニ電錯カ父其子ノ智術ヲ逞スルヲ憂テ。吾不忍見禍逮身ト云テ。自ラ毒薬ヲ飲テ死タト云コトシヤ。此ハ父タル者ノ慈心。ソノ子ヲ感セシムル志ナルヘシ。又王陵カ母カ敵国ニ捕レテ。自ラ劒ニ伏シテ死タト云コトシヤ。此ハ其子ニ忠義ヲ全セシムル志ナルヘシ。変ニ処シテハカクモアルヘシ。珍シキコトデハナイ。虞舜曽子ノ孝モカクアルヘシ。珍シキコトテハナイ。
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『顔氏家訓』勉學斉の孝昭帝、婁太后の疾に侍す。容色憔悴し、服膳減損す。徐之才為に両穴に灸す。帝拳を握りて痛みに代わり、爪掌心に入り、血流れて手に満つ。后既に痊愈し、帝尋いで疾みて崩ず。遺詔に山陵の事を見ざるを恨む。其の天性の至孝なること彼くの如く、忌諱を識らざること此くの如きは、良に学無きの為す所なり。若し古人の母の早く死せんことを欲して之を悲哭するを譏るを見ば、則ち此の言を発せざらん。孝は百行の首と為すも、猶お学びて以て之を修飾するを須つ。況んや余事をや。
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『十善法語』巻第七・不兩舌戒古ニ舜耕於歴山而交益。陶於河浜而交禹。廉頗蘭相如カ交ヲ結ンテ趙ヲ全セシ類。朋友ノ道カクシヤ。三国ノトキ袁紹カ死後兄弟相争テ速ニ亡フル類。文帝カ弟ヲ殺シテ。此モ乱ノ階トナルノ類。夏ノトキ五子カ心ヲ同シテ。父祖遺訓ノ趣ヲ述テ歌ヲ作ル類。兄弟ノ善悪モ著シカルヘキコトシヤ。周幽王カ申后ヲ斥ケ。楚ノ平王カ郎夫人ヲ斥ケテ。禍児孫ニ及フ類。唐ノ太宗カ長孫皇后ノ諫ヲ聞類。夫妻ノ好ミモ鑑ヘキシヤ。此等ハ常人モ盛ニ云コトシヤカ。戒学ノ中ヨリ看レハ。此不両舌戒ノ験シヤ。