十善法語 / 巻第五・不綺語戒
營事ト云ハ。經中ニ佛地一掃。閣浮提ノ佛ヲ造ルニ勝ルトアル。一瓦一椽コトコトク梵福トアル。昔ハ實力子羅漢ノ身堅固ナラヌコトヲ知テ。僧ノ爲ニ知事トナル。近クハ雪峰ガ笊籬木杓ヲ將テ。到ル處庫下ニ勞ヲ執ル。賢聖ノ福分ニ從事スル如是シヤ。衆僧我ニ憑テ安樂ニ修行ス。佛法我ニ依テ世ニ久住ス。自利利他。當來ノ資糧。此ニ積集スルシヤ。此モ末世ニ至テ。名利ニ馳逐シ。權門ニ奔走シ。日夜怱忽タルハ所論テナイ。此坐禪入定ノタノシミ。受誦經論ノ樂ミ。營事福業ノ樂ミ。コトコトク絲竹管絃ノ比スヘキ所ニアラスシヤ。僧徒ノ詩賦文章ニワタリ。書畫ニ耽ル。ミナ耻ベキノ甚シキシヤ。
新字:営事ト云ハ。経中ニ仏地一掃。閣浮提ノ仏ヲ造ルニ勝ルトアル。一瓦一椽コトコトク梵福トアル。昔ハ実力子羅漢ノ身堅固ナラヌコトヲ知テ。僧ノ為ニ知事トナル。近クハ雪峰ガ笊籬木杓ヲ将テ。到ル処庫下ニ労ヲ執ル。賢聖ノ福分ニ従事スル如是シヤ。衆僧我ニ憑テ安楽ニ修行ス。仏法我ニ依テ世ニ久住ス。自利利他。当来ノ資糧。此ニ積集スルシヤ。此モ末世ニ至テ。名利ニ馳逐シ。権門ニ奔走シ。日夜怱忽タルハ所論テナイ。此坐禅入定ノタノシミ。受誦経論ノ楽ミ。営事福業ノ楽ミ。コトコトク糸竹管絃ノ比スヘキ所ニアラスシヤ。僧徒ノ詩賦文章ニワタリ。書画ニ耽ル。ミナ耻ベキノ甚シキシヤ。
書き下し
営事ト云ハ。経中ニ仏地一掃。閣浮提ノ仏ヲ造ルニ勝ルトアル。一瓦一椽コトコトク梵福トアル。昔ハ実力子羅漢ノ身堅固ナラヌコトヲ知テ。僧ノ為ニ知事トナル。近クハ雪峰ガ笊籬木杓ヲ将テ。到ル処庫下ニ労ヲ執ル。賢聖ノ福分ニ従事スル如是シヤ。衆僧我ニ憑テ安楽ニ修行ス。仏法我ニ依テ世ニ久住ス。自利利他。当来ノ資糧。此ニ積集スルシヤ。此モ末世ニ至テ。名利ニ馳逐シ。権門ニ奔走シ。日夜怱忽タルハ所論テナイ。此坐禅入定ノタノシミ。受誦経論ノ楽ミ。営事福業ノ楽ミ。コトコトク糸竹管絃ノ比スヘキ所ニアラスシヤ。僧徒ノ詩賦文章ニワタリ。書画ニ耽ル。ミナ耻ベキノ甚シキシヤ。
現代語訳
営事と言うのは、経の中に、仏の地を一度掃くのは、閻浮提(この世界)中の仏像を造るのに勝る、とある。一枚の瓦、一本の垂木もことごとく梵福(大きな福)である、とある。昔は実力子羅漢(沓婆摩羅子)が、自分の身が堅固でないことを知って、僧のために知事(寺務の役)となった。近くは雪峰が笊籬(ざる)や木の杓を持って、至る所の庫裏で労を執った。賢聖が福分に従事するのはこのようである。衆僧は自分に頼って安楽に修行する。仏法は自分によって世に久しく住する。自利利他、未来の資糧がここに積み集まるのである。これも末世に至って名利を追い、権門に奔走し、日夜せわしなくしているのは論ずるところではない。この坐禅入定の楽しみ、経論を受け誦する楽しみ、営事福業の楽しみは、ことごとく糸竹管絃の比べられるところではないのである。僧徒が詩賦文章に関わり、書画に耽るのは、みな恥ずべきことの甚だしいものである。
解説

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