十善法語 / 巻第五・不綺語戒
誦經ト云ハ。佛語ヲ受誦シテ。此ヲ以テ心地ヲ照ス。一句半偈コトコトク甘露味ニシテ。無漏大定ヨリ等流シ來ル所シヤ。雪山道士ハ羅刹ノ爲ニ身ヲ棄捨シテ求ル。帝釋天王ハ野干ノ爲ニ坐トナツテ求ル。口誦スラ業障ヲ消除シ。善功德ヲ得ル。心憶念スレハ。累却ノ迷習ヲ解脫シ。聖慧ヲ獲得ス。三乘ノ差別アレトモ。モト一法性ノ印スル所シヤ。終ニ一佛乘ニ歸シテ。更ニ餘歸ナシシヤ。肝要ハ密教ヲ奉持スル者親誦功ヲ累ルニ在ル。顯說ヲ奉持スル者ハ如說修行ニ在ル。此法ノ中ニ教者ト云カアル。無差別ノ中ニ差別ヲ建立シ。無礙辨舌ヲ以テ分教開宗スル。此ヲ佛世賢聖在世ニ照セハ。三歸相應ノ慧ニシテ。入道ノ初基シヤ。末世ニ至テ章ヲ尋ネ句ヲ逐ヒ。科ノ上ニ科ヲ分チ。自ラ是トシ他ヲ非トスルハ所論デナイ。
新字:誦経ト云ハ。仏語ヲ受誦シテ。此ヲ以テ心地ヲ照ス。一句半偈コトコトク甘露味ニシテ。無漏大定ヨリ等流シ来ル所シヤ。雪山道士ハ羅刹ノ為ニ身ヲ棄捨シテ求ル。帝釈天王ハ野干ノ為ニ坐トナツテ求ル。口誦スラ業障ヲ消除シ。善功徳ヲ得ル。心憶念スレハ。累却ノ迷習ヲ解脱シ。聖慧ヲ獲得ス。三乗ノ差別アレトモ。モト一法性ノ印スル所シヤ。終ニ一仏乗ニ帰シテ。更ニ余帰ナシシヤ。肝要ハ密教ヲ奉持スル者親誦功ヲ累ルニ在ル。顕説ヲ奉持スル者ハ如説修行ニ在ル。此法ノ中ニ教者ト云カアル。無差別ノ中ニ差別ヲ建立シ。無礙弁舌ヲ以テ分教開宗スル。此ヲ仏世賢聖在世ニ照セハ。三帰相応ノ慧ニシテ。入道ノ初基シヤ。末世ニ至テ章ヲ尋ネ句ヲ逐ヒ。科ノ上ニ科ヲ分チ。自ラ是トシ他ヲ非トスルハ所論デナイ。
書き下し
誦経ト云ハ。仏語ヲ受誦シテ。此ヲ以テ心地ヲ照ス。一句半偈コトコトク甘露味ニシテ。無漏大定ヨリ等流シ来ル所シヤ。雪山道士ハ羅刹ノ為ニ身ヲ棄捨シテ求ル。帝釈天王ハ野干ノ為ニ坐トナツテ求ル。口誦スラ業障ヲ消除シ。善功徳ヲ得ル。心憶念スレハ。累却ノ迷習ヲ解脱シ。聖慧ヲ獲得ス。三乗ノ差別アレトモ。モト一法性ノ印スル所シヤ。終ニ一仏乗ニ帰シテ。更ニ余帰ナシシヤ。肝要ハ密教ヲ奉持スル者親誦功ヲ累ルニ在ル。顕説ヲ奉持スル者ハ如説修行ニ在ル。此法ノ中ニ教者ト云カアル。無差別ノ中ニ差別ヲ建立シ。無礙弁舌ヲ以テ分教開宗スル。此ヲ仏世賢聖在世ニ照セハ。三帰相応ノ慧ニシテ。入道ノ初基シヤ。末世ニ至テ章ヲ尋ネ句ヲ逐ヒ。科ノ上ニ科ヲ分チ。自ラ是トシ他ヲ非トスルハ所論デナイ。
現代語訳
誦経と言うのは、仏の言葉を受けて誦し、これによって心の地を照らすことである。一句半偈もことごとく甘露の味であって、無漏の大定から流れ出てきたものである。雪山の道士(釈尊の前世)は羅刹のために身を棄てて(残りの偈を)求めた。帝釈天王は野干(狐)のために座となって(法を)求めた。口に誦するだけでも業の障りを消し、善い功徳を得る。心に憶念すれば、長い劫にわたる迷いの習いから解脱し、聖なる智慧を獲得する。三乗の差別はあっても、もとは一つの法性が印するところである。ついには一仏乗に帰して、ほかに帰するところはないのである。肝要は、密教を奉持する者は親しく誦する功を重ねることにある。顕教の説を奉持する者は、説かれたとおりに修行することにある。この法の中に教者というものがある。差別のない中に差別を立て、無礙の弁舌によって教えを分け宗を開く。これを仏世の賢聖在世に照らしてみれば、三帰に相応する慧であって、道に入る最初の基である。末世に至って、章を尋ね句を追い、科段の上にさらに科段を分け、自分を是とし他を非とするのは、論ずるところではない。
解説
この章句が説くこと
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