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十善法語 / 巻第五・不綺語戒

經中ニ此說カアル。出家人三業アリテ。終身心ヲ寄ヘキ處ト。一ニ坐禪。二ニ誦經。三ニ營事。坐禪ト云ハ。諸佛賢聖ハ餘事ナシ。唯コノ禪定ノミシヤ。佛ノ無上正覺。入涅槃。ミナ禪定相應ノ姿ト云コトシヤ。其中間ノ說法。ミナ禪定三昧ノ所現ト云コトシヤ。海印三昧ニ入テ華嚴ヲ說キ。三昧王三昧ニ入テ般若ヲ說キ。無量義處三昧ニ入テ法華ヲ說玉フトアルシヤ。諸ノ賢聖。三乘ノ差別アレトモ。皆禪定力ヲ以テ證果アリト云。諸ノ神通妙用。ミナ禪定ヨリ發スト云。此法ノ中ニ禪者ト云ガアル。唯見性ヲ論シテ禪定智慧ヲ論セヌ。此ヲ佛世賢聖在世ニ照セバ。三歸相應ノ慧ニシテ。入道ノ初基シヤ。末世ニ至テ言句模樣ヲ主トスルハ所論デナイ。

新字:経中ニ此説カアル。出家人三業アリテ。終身心ヲ寄ヘキ処ト。一ニ坐禅。二ニ誦経。三ニ営事。坐禅ト云ハ。諸仏賢聖ハ余事ナシ。唯コノ禅定ノミシヤ。仏ノ無上正覚。入涅槃。ミナ禅定相応ノ姿ト云コトシヤ。其中間ノ説法。ミナ禅定三昧ノ所現ト云コトシヤ。海印三昧ニ入テ華厳ヲ説キ。三昧王三昧ニ入テ般若ヲ説キ。無量義処三昧ニ入テ法華ヲ説玉フトアルシヤ。諸ノ賢聖。三乗ノ差別アレトモ。皆禅定力ヲ以テ証果アリト云。諸ノ神通妙用。ミナ禅定ヨリ発スト云。此法ノ中ニ禅者ト云ガアル。唯見性ヲ論シテ禅定智慧ヲ論セヌ。此ヲ仏世賢聖在世ニ照セバ。三帰相応ノ慧ニシテ。入道ノ初基シヤ。末世ニ至テ言句模様ヲ主トスルハ所論デナイ。

書き下し

経中ニ此説カアル。出家人三業アリテ。終身心ヲ寄ヘキ処ト。一ニ坐禅。二ニ誦経。三ニ営事。坐禅ト云ハ。諸仏賢聖ハ余事ナシ。唯コノ禅定ノミシヤ。仏ノ無上正覚。入涅槃。ミナ禅定相応ノ姿ト云コトシヤ。其中間ノ説法。ミナ禅定三昧ノ所現ト云コトシヤ。海印三昧ニ入テ華厳ヲ説キ。三昧王三昧ニ入テ般若ヲ説キ。無量義処三昧ニ入テ法華ヲ説玉フトアルシヤ。諸ノ賢聖。三乗ノ差別アレトモ。皆禅定力ヲ以テ証果アリト云。諸ノ神通妙用。ミナ禅定ヨリ発スト云。此法ノ中ニ禅者ト云ガアル。唯見性ヲ論シテ禅定智慧ヲ論セヌ。此ヲ仏世賢聖在世ニ照セバ。三帰相応ノ慧ニシテ。入道ノ初基シヤ。末世ニ至テ言句模様ヲ主トスルハ所論デナイ。

現代語訳

経の中にこういう説がある。出家の人には三つの業があって、生涯心を寄せるべきところだ、と。一に坐禅、二に誦経、三に営事である。坐禅と言うのは、諸仏賢聖にはほかの事はなく、ただこの禅定だけである。仏の無上正覚も入涅槃も、みな禅定に相応した姿ということである。その中間の説法も、みな禅定三昧の現れということである。海印三昧に入って華厳経を説き、三昧王三昧に入って般若経を説き、無量義処三昧に入って法華経を説かれた、とあるのである。諸々の賢聖は、三乗の差別はあっても、みな禅定の力によって果を証した、と言う。諸々の神通や妙用は、みな禅定から発する、と言う。この法の中に禅者というものがある。ただ見性を論じて禅定と智慧を論じない。これを仏世の賢聖在世に照らしてみれば、三帰に相応する慧であって、道に入る最初の基である。末世に至って言句の模様を主とするのは、論ずるところではない。

解説

出家の三つの務めとして坐禅・誦経・営事が挙げられ、まず坐禅が説かれる。仏の悟りも涅槃も説法もすべて禅定の現れで、華厳・般若・法華もそれぞれ三昧に入って説かれたという。そのうえで尊者は、見性だけを論じて禅定と智慧を論じない当時の禅者を、入道の初歩にすぎないと評し、言葉の技巧に走る者は論外とする。戒・定・慧をそろえて釈尊の時代の仏教に帰ろうとした尊者の立場がよく表れている。悟ったという言葉より、日々の実践の積み重ねを重んじる姿勢である。

この章句が説くこと

坐禅禅定三昧見性智慧出家

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