十善法語 / 巻第五・不綺語戒
到ル處ノ樹下若ハ石上。若ハ靜室ノ中。ミナ我修行ノ道境トナル。結跏趺坐シテ正憶念スル。此樂ハ又世間ニ類セス。智度論ノ中ニ。魔王カ結跏趺坐ノ畫ヲ視テモ怖ルルト有ル。經中ニ如龍蟠結トアル。塵外ニ睥睨シテ。胸中ニ一世ヲ空スル。月下ニ經行シテ自ラ我相ヲ伏スル。一分ノ聖教ヲ解シテ如說修行スル。一句ノ中ニ衆多ノ義ヲ得ル。一分ノ理趣身口相應スル。一法ノ中ニ衆多ノ法門ヲ得ル。一分ノ法ニ邪正辨明スル。此少智慧ノ中衆多法相應シ。決徹シテ疑ハヌ。此時三寶ニ於テ不壞ノ信ヲ得ル。相似ノ法ニ隨順セヌ。諸法ノ淺深コトコトク我憶念ノ中ニ入ル。諸方ノ節角諸訛コトコトク我見聞ノ中ニ歸スル我憶念スル處悉ク先佛ノ經ニ相違セス。此ニ至テ茶香蹴鞠圍碁等ノ興。假令許ストモ隨順シテ居ラルル場處デナイ。
新字:到ル処ノ樹下若ハ石上。若ハ静室ノ中。ミナ我修行ノ道境トナル。結跏趺坐シテ正憶念スル。此楽ハ又世間ニ類セス。智度論ノ中ニ。魔王カ結跏趺坐ノ画ヲ視テモ怖ルルト有ル。経中ニ如竜蟠結トアル。塵外ニ睥睨シテ。胸中ニ一世ヲ空スル。月下ニ経行シテ自ラ我相ヲ伏スル。一分ノ聖教ヲ解シテ如説修行スル。一句ノ中ニ衆多ノ義ヲ得ル。一分ノ理趣身口相応スル。一法ノ中ニ衆多ノ法門ヲ得ル。一分ノ法ニ邪正弁明スル。此少智慧ノ中衆多法相応シ。決徹シテ疑ハヌ。此時三宝ニ於テ不壊ノ信ヲ得ル。相似ノ法ニ随順セヌ。諸法ノ浅深コトコトク我憶念ノ中ニ入ル。諸方ノ節角諸訛コトコトク我見聞ノ中ニ帰スル我憶念スル処悉ク先仏ノ経ニ相違セス。此ニ至テ茶香蹴鞠囲碁等ノ興。仮令許ストモ随順シテ居ラルル場処デナイ。
書き下し
到ル処ノ樹下若ハ石上。若ハ静室ノ中。ミナ我修行ノ道境トナル。結跏趺坐シテ正憶念スル。此楽ハ又世間ニ類セス。智度論ノ中ニ。魔王カ結跏趺坐ノ画ヲ視テモ怖ルルト有ル。経中ニ如竜蟠結トアル。塵外ニ睥睨シテ。胸中ニ一世ヲ空スル。月下ニ経行シテ自ラ我相ヲ伏スル。一分ノ聖教ヲ解シテ如説修行スル。一句ノ中ニ衆多ノ義ヲ得ル。一分ノ理趣身口相応スル。一法ノ中ニ衆多ノ法門ヲ得ル。一分ノ法ニ邪正弁明スル。此少智慧ノ中衆多法相応シ。決徹シテ疑ハヌ。此時三宝ニ於テ不壊ノ信ヲ得ル。相似ノ法ニ随順セヌ。諸法ノ浅深コトコトク我憶念ノ中ニ入ル。諸方ノ節角諸訛コトコトク我見聞ノ中ニ帰スル我憶念スル処悉ク先仏ノ経ニ相違セス。此ニ至テ茶香蹴鞠囲碁等ノ興。仮令許ストモ随順シテ居ラルル場処デナイ。
現代語訳
至る所の樹の下、あるいは石の上、あるいは静かな部屋の中、みな自分の修行の道場となる。結跏趺坐して正しく憶念する。この楽しみはまた世間に類がない。大智度論の中に、魔王が結跏趺坐の画を見ても怖れる、とある。経の中に、龍がとぐろを巻くようだ、とある。塵の外を睥睨して、胸中に一世を空しくする。月の下を経行して、自ら我相を伏する。一分の聖教を理解して説かれたとおりに修行する。一句の中に多くの義を得る。一分の理趣に身と口が相応する。一法の中に多くの法門を得る。一分の法について邪正を弁え明らかにする。この少しの智慧の中に多くの法が相応し、決着して疑わない。この時、三宝に対して壊れない信を得る。似て非なる法に従わない。諸法の浅深がことごとく自分の憶念の中に入る。諸方の難解な言葉のもつれがことごとく自分の見聞の中に帰する。自分が憶念するところは、ことごとく先の仏の経に違わない。ここに至っては、茶・香・蹴鞠・囲碁などの興は、たとえ許しても、従っていられる場所ではない。
解説
この章句が説くこと
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