十善法語 / 巻第五・不綺語戒
莊子ニ輪扁カ輪ヲ斷ル。手ニ得テ心ニ應スト云ヲ聞ケバ。天下ノ理ハ輪扁カ手裡ニ止ル。柳子厚カ梓人傳ヲ見レバ。天下ノ理ハ梓人カ繩墨ノ中ニモ顯ハル。舜ノ壽丘ニ在テ陶器ヲ作ル。苦窳ナカリシト聞ケハ。陶器ノ中ニモ聖德顯ルル。佛經ノ中ニ。世尊過去世ニ婆羅門童子トナル時。鍛師アリ巧ニ針ヲ作ル。一枚ヲ水上ニ置ニ沈沒セス。婆羅門童子亦此術ニ閑フ。七針ヲ一針穴ニ投シ。コレヲ水上ニ浮フト云ヲ聞ケハ。針工ノ中ニモ菩薩ノ德顯ハルルシヤ。又目連尊者カ過去世ニ匠者トナル。機關ノ木人ヲ作テ。動作運轉全ク生人ニ異ナラヌトアレハ。機關ノ中ニモソノ德顯ハルルシヤ。
新字:荘子ニ輪扁カ輪ヲ断ル。手ニ得テ心ニ応スト云ヲ聞ケバ。天下ノ理ハ輪扁カ手裡ニ止ル。柳子厚カ梓人伝ヲ見レバ。天下ノ理ハ梓人カ縄墨ノ中ニモ顕ハル。舜ノ寿丘ニ在テ陶器ヲ作ル。苦窳ナカリシト聞ケハ。陶器ノ中ニモ聖徳顕ルル。仏経ノ中ニ。世尊過去世ニ婆羅門童子トナル時。鍛師アリ巧ニ針ヲ作ル。一枚ヲ水上ニ置ニ沈没セス。婆羅門童子亦此術ニ閑フ。七針ヲ一針穴ニ投シ。コレヲ水上ニ浮フト云ヲ聞ケハ。針工ノ中ニモ菩薩ノ徳顕ハルルシヤ。又目連尊者カ過去世ニ匠者トナル。機関ノ木人ヲ作テ。動作運転全ク生人ニ異ナラヌトアレハ。機関ノ中ニモソノ徳顕ハルルシヤ。
書き下し
荘子ニ輪扁カ輪ヲ断ル。手ニ得テ心ニ応スト云ヲ聞ケバ。天下ノ理ハ輪扁カ手裡ニ止ル。柳子厚カ梓人伝ヲ見レバ。天下ノ理ハ梓人カ縄墨ノ中ニモ顕ハル。舜ノ寿丘ニ在テ陶器ヲ作ル。苦窳ナカリシト聞ケハ。陶器ノ中ニモ聖徳顕ルル。仏経ノ中ニ。世尊過去世ニ婆羅門童子トナル時。鍛師アリ巧ニ針ヲ作ル。一枚ヲ水上ニ置ニ沈没セス。婆羅門童子亦此術ニ閑フ。七針ヲ一針穴ニ投シ。コレヲ水上ニ浮フト云ヲ聞ケハ。針工ノ中ニモ菩薩ノ徳顕ハルルシヤ。又目連尊者カ過去世ニ匠者トナル。機関ノ木人ヲ作テ。動作運転全ク生人ニ異ナラヌトアレハ。機関ノ中ニモソノ徳顕ハルルシヤ。
現代語訳
荘子に、輪扁が車輪を削るのに、手に会得して心に応ずる、とあるのを聞けば、天下の理は輪扁の手の内にとどまっている。柳子厚(柳宗元)の梓人伝を見れば、天下の理は大工の墨縄の中にも現れる。舜が寿丘にいて陶器を作ったとき、粗悪なものがなかったと聞けば、陶器の中にも聖人の徳が現れる。仏経の中に、世尊が過去世に婆羅門の童子となった時、針を巧みに作る鍛冶師がいて、一本を水の上に置くと沈まなかった。婆羅門の童子もまたこの術に通じて、七本の針を一本の針穴に投げ入れ、これを水上に浮かべた、とあるのを聞けば、針職人の中にも菩薩の徳が現れるのである。また目連尊者が過去世に工匠となり、からくりの木の人形を作って、動作や運転がまったく生きた人と異ならなかった、とあるので、からくりの中にもその徳が現れるのである。
解説

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『童子問』卷上問ふ、易知易行・万世不易の理の、実に至極為ることは、既に命を聞くことを得たり。然れども心中猶ほ未だ釈然たること能はず。願はくは易く暁りやすきの語を以て、申ねて諭を垂れよと。曰く、人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行ふ、何の難知難行か之れ有らん。夫れ人の霊を以てすと雖も、然れども羽ある者の翔り、鱗ある者の潜るが若くなること能はざる者は、其の性異なればなり。堯の服を服し、堯の行ひを行ひ、堯の言を誦するに於ては、則ち復た甚だ難き者無し。其の道同じければなり。故に孟子曰く、夫れ道は一のみと。若し夫れ人倫を外にして道を求むる者は、猶ほ風を捕へ影を捉ふるがごとく、必ず得べからざるなり。故に道を知る者は、必ず之を邇きに求む。其の道を以て高しと為し、遠しと為し、企て及ぶべからずと為す者は、皆道の本然に非ず、自ら惑ふの致す所なり。
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『弁名』理氣人欲包犠氏網罟を為る、蓋し諸を離に取る、神農氏耒耜を為る、蓋し諸を益に取るが如し。易は本と象を取りて器を作るの義有り。故に爾か云ふ。形而上は、器未だ形を成さざる以前、唯だ易の道有るのみを謂ふ。其の形を成すの後に至りて、始めて其の器有り。皆器を制するを主として之を言ふ。下文遂に曰く、「化して之を裁する、之を変と謂ふ。推して之を行ふ、之を通と謂ふ。挙げて之を天下の民に措く、之を事業と謂ふ」と。是れ皆易を賛するの言なり。道器変通事業は、皆易を以て之を言ふのみ。上章に「戸を闔づる之を坤と謂ひ、戸を闢く之を乾と謂ふ。一たび闔ぢ一たび闢く之を変と謂ひ、往来窮まらざる之を通と謂ふ。見はるる乃ち之を象と謂ひ、形はるる乃ち之を器と謂ふ。制して之を用ふる之を法と謂ひ、利用出入して民咸之を用ふる之を神と謂ふ」と曰ふが如きも、是れ又た道器を以て対言せず。其の義以て見るべきのみ。豈に大謬に非ずや。
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『慎思録』巻之四術者の陋なり。陰陽を指して道と為すは、猶ほ天地を指して道と為し、聖人を指して道と為すがごとし。此れ道の在る所を以て言ふ。其の実、天地陰陽は即ち是れ道の存する所にして、還た是れ道中に在る所の物なり。蓋し道を以て主と為して之を言へば、則ち天地万物は皆是れ道中の物なり。天地万物を以て主と為して之を言へば、則ち道は天地万物の中に在りて、之が主為る者なり。陰陽の如きは、則ち又天地万物の比に非ず。同異離合を以て之を言ふべからず。故に易に陰陽を以て道を言ふは、此を以てなり。
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『弁名』理氣人欲仁斎先生曰く、「道は行ふ所を以て言ふ、活字なり。理は存する所を以て言ふ、死字なり。聖人は道を見ること実なり、故に其の理を説くや活なり。老氏は道を見ること虚なり、故に其の理を説くや死なり」と。又た曰く、「道は本と活字、其の生生化化の妙を形容する所以なり。理の字の若きは本と死字、玉に従ひ里に従ふ、玉石の文理を謂ふ。以て事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と。此等の議論、皆痴人の夢を説くが如し。
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『弁名』道小人の道長ずと曰ひ、戎狄の道と曰ふ者有り。皆其の由る所を以て俗を成し、自ら一道有るに似たり。故に之を言ふ。善人の道と曰ひ、父の道を改むること無しと曰ふ者有り。亦た其の由る所を言ふのみ。必ずしも先王の道ならず。凡そ其の意此を以て道と為して之に由る者なり。是の道や何ぞ以て臧しとするに足らんと曰ふ者有り。詩書礼楽は、皆先王の道なり。故に一言半句と雖も亦た称して道と為すのみ。
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『慎思録』巻之三聖人の道は、本自ら分明なり。故に夫婦の愚も、以て与り知るべし。本自ら簡易なり。故に夫婦の不肖も、以て能く行ふべし。然れども世に之を知り之を行ふ者鮮きは、何ぞや。蓋し教無く習無きに因るなり。