十善法語 / 巻第五・不綺語戒
今時世間ニ律僧ト云類カ。頭上ニ大笠ヲ戴キ。胸前ニ方袋ヲ係ル。此モ賢聖ノ儀ニハ違ヘトモ。此近比已來。其宗其寺格ニナリ來リシコトハ。其儘テヨキシヤ。身綺ニハナラヌシヤ。正ク云ハ一事ト雖トモ新威儀ヲ制スベカラス。律文ニ非制ニ制シ。是制ニ違スルヲ。法滅ノ相ト說テ有シヤ。世擧テ然ル事。衆人コトコトク然ル事ハ。衆ニ順シ世間ニ隨順スルモ可ナリ。我ヒトリ清リト云ハ不是シヤ。又出家ト新發意ニ俗ノ官名ヲ呼フ類。マツ其通リニテ中人已下ニハ許スベシ。綺語ニハナラヌシヤ。若嚴烈ニ言ハハ。沙門ノ俗服ヲ着スルヲ滅法ノ相ト云。沙門ノ俗稱ヲ稱スルヲ越法ノ罪ト云。爾餘異風異儀ミナ越法ノ罪ト云コトシヤ。
新字:今時世間ニ律僧ト云類カ。頭上ニ大笠ヲ戴キ。胸前ニ方袋ヲ係ル。此モ賢聖ノ儀ニハ違ヘトモ。此近比已来。其宗其寺格ニナリ来リシコトハ。其儘テヨキシヤ。身綺ニハナラヌシヤ。正ク云ハ一事ト雖トモ新威儀ヲ制スベカラス。律文ニ非制ニ制シ。是制ニ違スルヲ。法滅ノ相ト説テ有シヤ。世挙テ然ル事。衆人コトコトク然ル事ハ。衆ニ順シ世間ニ随順スルモ可ナリ。我ヒトリ清リト云ハ不是シヤ。又出家ト新発意ニ俗ノ官名ヲ呼フ類。マツ其通リニテ中人已下ニハ許スベシ。綺語ニハナラヌシヤ。若厳烈ニ言ハハ。沙門ノ俗服ヲ着スルヲ滅法ノ相ト云。沙門ノ俗称ヲ称スルヲ越法ノ罪ト云。爾余異風異儀ミナ越法ノ罪ト云コトシヤ。
書き下し
今時世間ニ律僧ト云類カ。頭上ニ大笠ヲ戴キ。胸前ニ方袋ヲ係ル。此モ賢聖ノ儀ニハ違ヘトモ。此近比已来。其宗其寺格ニナリ来リシコトハ。其儘テヨキシヤ。身綺ニハナラヌシヤ。正ク云ハ一事ト雖トモ新威儀ヲ制スベカラス。律文ニ非制ニ制シ。是制ニ違スルヲ。法滅ノ相ト説テ有シヤ。世挙テ然ル事。衆人コトコトク然ル事ハ。衆ニ順シ世間ニ随順スルモ可ナリ。我ヒトリ清リト云ハ不是シヤ。又出家ト新発意ニ俗ノ官名ヲ呼フ類。マツ其通リニテ中人已下ニハ許スベシ。綺語ニハナラヌシヤ。若厳烈ニ言ハハ。沙門ノ俗服ヲ着スルヲ滅法ノ相ト云。沙門ノ俗称ヲ称スルヲ越法ノ罪ト云。爾余異風異儀ミナ越法ノ罪ト云コトシヤ。
現代語訳
今の世間で律僧という者たちが、頭に大きな笠をかぶり、胸の前に方形の袋を掛ける。これも賢聖の儀には違うけれども、近ごろ以来その宗その寺の格式になってきたことは、そのままでよいのである。身綺にはならない。正しく言えば、一つのことであっても新しい威儀を定めてはならない。律の文に、制していないことを制し、制したことに背くのを、法が滅びる相と説いてあるのである。世をあげてそうである事、人々がことごとくそうしている事は、人々に従い世間に随うのもよい。自分一人だけが清らかだと言うのは、正しくないのである。また出家や新発意(出家したての者)を俗の官名で呼ぶ類も、まずそのとおりで、中程度以下の人には許してよい。綺語にはならないのである。もし厳しく言うなら、沙門が俗服を着るのを法が滅びる相と言い、沙門が俗の称号を名乗るのを法を越える罪と言う。そのほかの変わった風や儀もみな法を越える罪ということである。
解説

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