十善法語 / 巻第四・不妄語戒
又此法ノ中ニ。淨土宗ハヒタスラ彌陀如來ノ名號ヲ唱ルヲ以テ宗旨トスル。强テ觀解相應ヲモ論セス。學業ノ厚薄ヲモ論セヌシヤ。口ニ唱ル名號カ。彌陀ノ本願ニカナフシヤ。法身ニ隨順スルシヤ。法性ニ相應スルシヤ。是モ妄語綺語コウタ淨瑠璃等ニ隨順スル人カ。口稱ニ德有テ順次ノ往生ヲ遂クヘキ理ハナイ。厭離穢土ノ宗旨ナレバ。コトニ穢言ヲ云ヌ人ヲ得マホシキコトシヤ。法華經ノ題目ヲ唱ル者モ。此ニ準シテ知レ。五時八教ノワケヲ解セストモ。四種ノ三昧ノ差別ヲ知ストモ。唯口ニ唱ルハカリモ。法性ニ順スル義有ヘキシヤ。此中ニモ眞實語ノ人ヲ得テ。一乘ノ法ヲ護持サセタキコトシヤ。
新字:又此法ノ中ニ。浄土宗ハヒタスラ弥陀如来ノ名号ヲ唱ルヲ以テ宗旨トスル。強テ観解相応ヲモ論セス。学業ノ厚薄ヲモ論セヌシヤ。口ニ唱ル名号カ。弥陀ノ本願ニカナフシヤ。法身ニ随順スルシヤ。法性ニ相応スルシヤ。是モ妄語綺語コウタ浄瑠璃等ニ随順スル人カ。口称ニ徳有テ順次ノ往生ヲ遂クヘキ理ハナイ。厭離穢土ノ宗旨ナレバ。コトニ穢言ヲ云ヌ人ヲ得マホシキコトシヤ。法華経ノ題目ヲ唱ル者モ。此ニ準シテ知レ。五時八教ノワケヲ解セストモ。四種ノ三昧ノ差別ヲ知ストモ。唯口ニ唱ルハカリモ。法性ニ順スル義有ヘキシヤ。此中ニモ真実語ノ人ヲ得テ。一乗ノ法ヲ護持サセタキコトシヤ。
書き下し
又此法ノ中ニ。浄土宗ハヒタスラ弥陀如来ノ名号ヲ唱ルヲ以テ宗旨トスル。强テ観解相応ヲモ論セス。学業ノ厚薄ヲモ論セヌシヤ。口ニ唱ル名号カ。弥陀ノ本願ニカナフシヤ。法身ニ随順スルシヤ。法性ニ相応スルシヤ。是モ妄語綺語コウタ浄瑠璃等ニ随順スル人カ。口称ニ徳有テ順次ノ往生ヲ遂クヘキ理ハナイ。厭離穢土ノ宗旨ナレバ。コトニ穢言ヲ云ヌ人ヲ得マホシキコトシヤ。法華経ノ題目ヲ唱ル者モ。此ニ準シテ知レ。五時八教ノワケヲ解セストモ。四種ノ三昧ノ差別ヲ知ストモ。唯口ニ唱ルハカリモ。法性ニ順スル義有ヘキシヤ。此中ニモ真実語ノ人ヲ得テ。一乗ノ法ヲ護持サセタキコトシヤ。
現代語訳
またこの仏法の中で、浄土宗はひたすら阿弥陀如来の名号を唱えることを宗旨とする。強いて観想や理解が相応するかを論ぜず、学問の厚い薄いも論じないのである。口に唱える名号が、阿弥陀の本願にかなうのである。法身に従うのである。法性に相応するのである。これも、妄語や綺語、小歌や浄瑠璃などに従う人が、口に称える念仏に徳があって次の生で往生を遂げるはずの道理はない。穢れた国土を厭い離れることを宗旨とするのだから、ことに穢れた言葉を言わない人を得たいものである。法華経の題目を唱える者も、これに準じて知りなさい。五時八教の分け方を理解しなくても、四種三昧の違いを知らなくても、ただ口に唱えるだけでも、法性に順う意味があるはずである。この中にも真実の言葉の人を得て、一乗の法を護持させたいものである。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』念仏は末代の唯一の道か問淨土宗を信ずる人のいはく、末代の人は大乘を修行すとも、悟證あるべからず、しかれば先づ念佛の行を修して、淨土に生れて後大乘に入るべし、或はいはく上代末世を論ぜず、諸宗の中には念佛の法門最上なり、其の故は罪惡の衆生をもきらはず、愚癡の凡夫をもすてずたゞ名號を唱ふれば淨土に往生して、やがて正覺を成すこの故に、これを易行門となづけたり、超世の願ともいへり、しかれば難行門を修する人はいたづらごとなりと云云。かやうの法門其の謂れありや。 答念佛の法門を立らるゝ人も釋尊の說をうけ玉へり、諸の大乘經は釋尊の說にあらずや、諸の大乘經の中には未來末世に大乘を修せん者のためと說かれたり、末代の衆生は大乘を行ずべからず、たゞ念佛の行を修すべしと說かれたる大乘經はすべてなし、但し人の根性まち〱なれば、大乘の宿熏なき故に念佛の法門を信ずる事をばそしるべからず、かゝる機根のために如來此の一行を說き玉へり、たま〱前世の宿習によりて、大乘を學する人の中に大乘の法門にまかせて行ずれ共、たゞ妄念のみ起りて眞心は發せず、かくて一期をすごしなば當來の惡報のがれがたし。然れば他力本願をたのみて西方淨土を願ふべしといふ人あり、かやうの人は大乘の法門を學しながら、いまだ大乘の題目をだにしらざる人なり。惡趣の外に淨土をねがひ自力他力をわかち、難行易行を論ずるは、皆な是了義大乘の題目にあらず、若し此の題目を信ずる人はいまだ分明に悟りて、開くことなくとも妄念の起るによりて退屈すべからず。いはんや惡趣淨土を論じ、自力他力をわかたんや、惡趣淨土の差別は一念の上にうかべる假相なり、圓覺經に云く、一切の佛世界も空花のごとしと云云。たゞ大乘の題目を信じて行住坐臥わすれずば、やがて悟りを開くことなくとも惡趣に墮する事あるべからず、たとひ前業は重く行力はよはき人、一旦惡趣に入れども大乘の信解くちせぬ故に、やがて其の中より解脫を得べし、龍女は畜生道に墮ちしかとも八歲の時、卽身成佛しきこれ其の證據なり、阿闍世王今生に父を殺して逆罪をつくりしかとも涅槃會上に到りて果を證せり、佛阿闍世に告て言はく汝と我れと毘婆尸佛の時、同時に大乘心を發しき、然れども汝は懈怠にして修行せず、是の故にいまにいたるまで佛道を成せず、しかれども大乘の信力のくちせぬ故に毘婆尸佛よりこのかたついに惡趣に生ぜず、國王大臣の家に生れたり、其の宿習開發せる故に今生逆罪をつくるといへども、今我れにあふて證果せりと云云。經に云く、大乘をそしりて地獄におちたるは百千の塔婆を造立するにはまされり、たとへば人の地に因つて倒れて地に因つて起るがごとしと云云。此の文の意は大乘を謗ずる罪によりて、一旦地獄に入れども大乘を聞きつる緣によりてついに解脫を得る謂れなり。何かに況んや大乘の題をわすれずして形のごとくも行ぜん、人をや大乘の題目は、凡聖もへだてなしといへることを信ずれども、いまだ分明に此の理をさとらざる人のために、種々の行をあかせり。行相は種々なりといへ共、小乘の修行の生死の外に涅槃をもとめ、權敎の修行の妄心の外に眞心をもとむるには同じからず、無修にして修し無證にして證すといへるは、此の意なり、大乘の題をばわすれずして、其の中に經をよみ呪を誦し、佛の名號を唱ふる事は妨げあるべからず、無明妄想にばかされて大乘は難行なり、他力をたのむべしといふ、人をば大乘を學したる人と申すべからずしかるを、我れは大乘の法門を學得したれ共、これは難行なれば念佛の行を修すべしといへるは、誹謗大乘の人なり、大乘の法門をしらねばたゞ念佛の行を修すといはればさもありぬべし。或は云念佛の法門は罪惡をもきらはず、愚癡をもすてず、たゞ名號を唱ふれば淨土に生れてやがて成佛す、この故に最上の法門なり、餘宗の法門は皆難行門なるが故に、下劣なりと申す人あり、若まことに罪惡愚癡の人もたゞ彌陀の名號を唱ふれば、やがて正覺を成ずることならば、末代下根の衆生ばかりに相應せる法門にはあるべからず、上代上根の人のためも難行の法門を說くことは枝葉あるべし。しかるに釋尊一代の說法多くはこれ淨土宗よりきらはるゝ難行門の說なり、其中に念佛往生のことを說ける經はすくなし、正しく淨土の行門を說けることは淨土の三部經のみなり、如來は無智にしてかやうに枝葉の法門を多く說き玉へるならんや。
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『十善法語』巻第四・不妄語戒智者ハ言語少ク。又妄語ナキシヤ。若多言ナレハ盛徳ノ疵トナル。虚妄ナレハ身ヲ亡シ家ヲ喪フ。又愚者ハ多ク妄語スル。此因縁ニ由テ他ノ欺ヲモ受ルト云コトシヤ。タトヒ愚蒙ナル者モ真実語ノ者ハ。一分智者ノ徳シヤ。世間モ面白キ物テ。法性ノ軌則条然トシテ差ヌシヤ。又上古ノ人病発スル時針灸薬ヲ用ヒス。唯咒術ニ由テ平癒セシト云モ。其理有ルヘキシヤ。道ヲ語ル者ノ中ニ。諸ノ外道ハ詐リ多トアル。諸仏ト仏弟子ハ妄語ハ無トアル。此妄語ナキ人カ真正法ヲ得ル。真正法ノ人ハ此一切言音カミナ法門トナリ来ル。此言音中ニ法ヲ満足シテ。無漏聖道ヲ得ルト云コトシヤ。仏世尊ハ無量却来此徳闕失ナキニ由テ。其教勅ニ一切衆生カ背ヌトアル。
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夢中問答集・『夢中問答集』念仏を軽んじてよいのか問古來了義大乘を談ぜし人も、念佛の行を修せる事あり、禪師の中にも念佛をほめられたる人多し、何ぞ念佛をかろしむべきや。 答かならずしも佛の名號を唱ふるを、不了義と申にはあらず、涅槃經に云く、麁言及細語皆第一義に歸すと云云。法花經に云く、治生產業も皆實相と違背せずと云云。若し大乘の法理を悟りぬれば、世間の一切の語一切の業是れ皆な了義の大乘なるべし。いはんや佛の名を唱ふるを小乘なりと申さんや、淨土宗を立て玉へる宗師も、自心は大乘の深理を解了し玉へとも、愚人を誘引せんために、しばらく淨土穢土をわかち自力他力をことはり玉ふ人あり。かやうなるをば無智の人と申すべからず、是れ卽ち菩薩の大悲方便なり、然れども、淨土宗を信ずる人の中に、穢土の外に淨土をもとめて念佛申すをば、了義の大乘となづくべからず。佛說にも不了義はあれども誘引方便の門なるが故に、これをいたづらごとゝは申さず、涅槃經等に不了義をきらへるは、佛の本意の了義にあることをしらしめんためなり。眞言宗の中にも念佛の祕決あり、其の說淨土宗の人の所解に同じからず、禪者も念佛を申せとも、其の意趣常の念佛者と同じからず、禪門には定まれる行相なし、楞嚴呪大悲呪なんとを誦することも近來しつけたる事なり、本尊も何に佛を信ぜよと定めたる事なし。觀音地藏等を信じ奉る人は、各其の名號を唱ふ、若し又彌陀如來を信ずる人其の名號をとなへ奉らんこと何の妨げかあらんや。今時禪宗を信ずる人の中に念佛の法門は小乘なり、念佛者とて愚痴なる人なりと思ひて一向にこれを隔つる人あり、是も又祖師の宗旨は、人々具足せりといふことを知らざる故なり。思益經に云く、大乘の法門を聞てこれを信ぜず、厭ひ捨つる者あり、たとへば愚人の虛空をいとふて走り出づるがごとし、傍らに人ありて、此の愚人をあはれみて何にとしてか、此の虛空を出たる者をよびかへして、再び虛空に入れしめんといふも亦是愚人なり、大乘を捨つる者を見て、これを憐れみて何にとしてか、此愚人を我が大乘に入れしめんといふも亦復かくのごとしと云云。
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『十善法語』巻第四・不妄語戒聖教ノ中。讃唄ノ徳。及ヒ鈴鐸ノ徳ヲ説。ミナ信スヘキシヤ。無漏大定ノ世界ノ中ニ。此妙法蔵有テ。常ニ十善相応ノ人間ニ随順スル。此戒相ニ大妄語アリ。小妄語アルシヤ。徳義道義ニ就テ詐ルヲ大妄語ト云。通途ノ見ルヲ不見ト云ヒ。見サルヲ見ルト云ヒ。是非顛倒シテ説ヲ。小妄語ト名ツクル。今ノ世ニ愚ナル者カ名聞ノ為利養ノタメ。仏ノ名号ヲ唱ヘ。真言ヲ受誦シテ。仏モ見エル様ニ云類。神祇ノ告モ有様ニ云類。少シモ虚偽ニワタルハ。大妄語ニナルシヤ。書ヲ著シテ仏説ナラヌコトヲ仏説ノヤウニ書キノコス類。夢ニ託シ感応ニ託シ種種ノ虚誕ヲ設ケ。世ヲ迷ハシ民ヲ誣ル類。ミナ大妄語ト云シヤ。此大妄語ハ無間ノ罪業ト云コトシヤ。
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