十善法語 / 巻第二・不偸盜戒
眼ニ色ヲ見ル。是我物ナルヘキカ。此モ內ニ眼根アリ。外ニ色アリ。中間ニ虚空アリ。光明アリ。衆緣和合シテ假ニ此相アリ。鏡ニウツル影ノ如クテ實體ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決定ス。次ニ耳ニ聲ヲ聞ク。コレ我物ナルヘキカ。此モ內ニ耳根アリ。外ニ聲アリ。遠カラス近カラス。他ノ障礙ナキ時。衆緣和合シテ假ニ此相アリ。空谷ノ響ノ如ク。其實體ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決ス。乃至意ニ善惡邪正是非得失ヲ分別スル。是我物ナルヘキカ。此心モ自ラ心トハ知ヌ。自ラ心トハ言ヌ。意ト云名モ心ト云名モ外ヨリ名ツケシ物。畢竟シテ見聞覺知ノ影ナリ。ソノ實體ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決ス。此時一切我相ヲ離レ。廓然トシテ初果ニ入リ。再ヒ思惟シテ羅漢果ヲ成セシトアル。
新字:眼ニ色ヲ見ル。是我物ナルヘキカ。此モ内ニ眼根アリ。外ニ色アリ。中間ニ虚空アリ。光明アリ。衆縁和合シテ仮ニ此相アリ。鏡ニウツル影ノ如クテ実体ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決定ス。次ニ耳ニ声ヲ聞ク。コレ我物ナルヘキカ。此モ内ニ耳根アリ。外ニ声アリ。遠カラス近カラス。他ノ障礙ナキ時。衆縁和合シテ仮ニ此相アリ。空谷ノ響ノ如ク。其実体ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決ス。乃至意ニ善悪邪正是非得失ヲ分別スル。是我物ナルヘキカ。此心モ自ラ心トハ知ヌ。自ラ心トハ言ヌ。意ト云名モ心ト云名モ外ヨリ名ツケシ物。畢竟シテ見聞覚知ノ影ナリ。ソノ実体ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決ス。此時一切我相ヲ離レ。廓然トシテ初果ニ入リ。再ヒ思惟シテ羅漢果ヲ成セシトアル。
書き下し
眼ニ色ヲ見ル。是我物ナルヘキカ。此モ内ニ眼根アリ。外ニ色アリ。中間ニ虚空アリ。光明アリ。衆縁和合シテ仮ニ此相アリ。鏡ニウツル影ノ如クテ実体ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決定ス。次ニ耳ニ声ヲ聞ク。コレ我物ナルヘキカ。此モ内ニ耳根アリ。外ニ声アリ。遠カラス近カラス。他ノ障礙ナキ時。衆縁和合シテ仮ニ此相アリ。空谷ノ響ノ如ク。其実体ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決ス。乃至意ニ善悪邪正是非得失ヲ分別スル。是我物ナルヘキカ。此心モ自ラ心トハ知ヌ。自ラ心トハ言ヌ。意ト云名モ心ト云名モ外ヨリ名ツケシ物。畢竟シテ見聞覚知ノ影ナリ。ソノ実体ナシ。我物ナラス。取ヘカラスト決ス。此時一切我相ヲ離レ。廓然トシテ初果ニ入リ。再ヒ思惟シテ羅漢果ヲ成セシトアル。
現代語訳
「眼で色を見る。これは自分の物であろうか。これも内に眼根があり、外に色があり、その間に虚空があり、光明があって、多くの縁が和合して仮にこの相がある。鏡に映る影のようで実体がない。自分の物ではない。取ってはならない」と決定した。「次に耳で声を聞く。これは自分の物であろうか。これも内に耳根があり、外に声があり、遠すぎず近すぎず、他の障りのない時に、多くの縁が和合して仮にこの相がある。空の谷のこだまのように、その実体がない。自分の物ではない。取ってはならない」と決めた。「さらには意で善悪・邪正・是非・得失を分別する。これは自分の物であろうか。この心も自ら心とは知らない。自ら心とは言わない。意という名も心という名も外から名づけた物である。結局は見聞覚知の影である。その実体はない。自分の物ではない。取ってはならない」と決めた。この時、一切の我相を離れ、からりと開けて初果に入り、再び思惟して羅漢果を成就したとある。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
-
『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
-
『弁名』心志意孟子曰く、「其の心を尽くす者は其の性を知るなり」と。是れ其の心力を尽くして以て之を思ふを謂ふのみ。正に梁恵王の所謂「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ」と同意なり。但だ人思はざるのみ、之を思へば則ち能く性の善を知り、性の善を知れば則ち天道の善に与するを知ると言ふ。孟子の本意、是くの若きに過ぎず。宋儒先王の教法を識らず、故に論語・孟子の字面に就きて、以て学問の方を求め、遂に心を尽くすとは心の量を尽くすと謂ふ。妄なるかな。豈に所謂心の量なる者有らんや。仁斎先生曰く、「四端の心を拡充して其の極に至るを謂ふなり」と。果たして其の言の是ならんか、則ち当に其の性を知る者は其の心を尽くすと曰ふべし。其の言の倒置、豈に強ふるに非ずや。亦た聖人為らんと欲するが故のみ。
-
言志四録・言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
-
言志四録・言志録 第九十七条 心の来処は太虚目を挙ぐれば百物、皆来処有り。軀殻の父母より出づるも、亦来処なり。心に至りては則ち来処何くに在る。余曰く、軀殻は是れ地気の精英、父母に由りて之を聚む。心は則ち天なり。軀殻成りて天寓し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚泯ぶ。心の来処は、乃ち太虚是れのみ。
-
『洗心洞箚記』卷下・第百一條小程子曰く、一人の心は、即ち天地の心なり。一物の理は、即ち万物の理なり。一日の運は、即ち一歳の運なり、と。吾姚江致良知の教を奉ずと雖も、二程子の説を以て徴と為すなり。而して伊川先生の此の語に於て、賜はる所甚だ少なからず。人如し能く心性を了すれば、則ち理と運も亦た心のみ、別物に非ざるなり。先生分別して之を説くは、童蒙の為のみ。