十善法語 / 巻第二・不偸盜戒
此不妄語戒ヲ昔ヨリ信ニ配スル。此ハ不妄語ト云モ。信ト云モ。相當ルヘキシヤ。シカシ此モ宋儒ナトノ樣ニ理ヲ向上ニ言ヒナシテハ。信ノ名義スラ實ナキコトニ成ル。虛頭ニ落ルシヤ。今此戒ニ依テ詐ハ言フナ。言タコトハ違ヘナト云ヘハ。上王公大人ヨリ庸夫愚婦ニ至ルマテ。推通シテ行ハルル。是ヲ以テ導キ教ヘハ。人人正直者シヤ。家家實義ノ門シヤ。上タル者下ヲ欺サレハ。民ノ君ヲ推戴スルコト日月ノ如クシヤ。下タル者上ヲ欺サレハ。君ノ民ヲ思フコト赤子ヲ保スル如クシヤ。有司タル者誠ヲ以テ君ニ事ヘ。誠ヲ以テ其職ニ居ハ。悉ク直臣循吏シヤ。堯舜ノ君。稷契皐陶ノ□□四方八隅皆有道ノ民ト云モ。此不妄語ヲ基トスヘキシヤ。如是年月ヲ經テ守ラハ。聖賢ノ地位ニモ到ルマシキモノナラスシヤ。
新字:此不妄語戒ヲ昔ヨリ信ニ配スル。此ハ不妄語ト云モ。信ト云モ。相当ルヘキシヤ。シカシ此モ宋儒ナトノ様ニ理ヲ向上ニ言ヒナシテハ。信ノ名義スラ実ナキコトニ成ル。虚頭ニ落ルシヤ。今此戒ニ依テ詐ハ言フナ。言タコトハ違ヘナト云ヘハ。上王公大人ヨリ庸夫愚婦ニ至ルマテ。推通シテ行ハルル。是ヲ以テ導キ教ヘハ。人人正直者シヤ。家家実義ノ門シヤ。上タル者下ヲ欺サレハ。民ノ君ヲ推戴スルコト日月ノ如クシヤ。下タル者上ヲ欺サレハ。君ノ民ヲ思フコト赤子ヲ保スル如クシヤ。有司タル者誠ヲ以テ君ニ事ヘ。誠ヲ以テ其職ニ居ハ。悉ク直臣循吏シヤ。堯舜ノ君。稷契皐陶ノ□□四方八隅皆有道ノ民ト云モ。此不妄語ヲ基トスヘキシヤ。如是年月ヲ経テ守ラハ。聖賢ノ地位ニモ到ルマシキモノナラスシヤ。
書き下し
此不妄語戒ヲ昔ヨリ信ニ配スル。此ハ不妄語ト云モ。信ト云モ。相当ルヘキシヤ。シカシ此モ宋儒ナトノ様ニ理ヲ向上ニ言ヒナシテハ。信ノ名義スラ実ナキコトニ成ル。虚頭ニ落ルシヤ。今此戒ニ依テ詐ハ言フナ。言タコトハ違ヘナト云ヘハ。上王公大人ヨリ庸夫愚婦ニ至ルマテ。推通シテ行ハルル。是ヲ以テ導キ教ヘハ。人人正直者シヤ。家家実義ノ門シヤ。上タル者下ヲ欺サレハ。民ノ君ヲ推戴スルコト日月ノ如クシヤ。下タル者上ヲ欺サレハ。君ノ民ヲ思フコト赤子ヲ保スル如クシヤ。有司タル者誠ヲ以テ君ニ事ヘ。誠ヲ以テ其職ニ居ハ。悉ク直臣循吏シヤ。堯舜ノ君。稷契皐陶ノ□□四方八隅皆有道ノ民ト云モ。此不妄語ヲ基トスヘキシヤ。如是年月ヲ経テ守ラハ。聖賢ノ地位ニモ到ルマシキモノナラスシヤ。
現代語訳
この不妄語戒を昔から信に配する。これは不妄語と言うのも、信と言うのも、相当するはずである。しかしこれも宋の儒者などのように、理を高遠に言いなしては、信という名の意味さえ実のないことになる。空虚な所に落ちるのである。今この戒によって、「偽りは言うな。言ったことは違えるな」と言えば、上は王公大人から凡夫や愚かな者に至るまで、通じて行われる。これをもって導き教えれば、人々は正直者である。家々は誠実の門である。上に立つ者が下を欺かなければ、民が君を推戴することは日月を仰ぐようである。下にある者が上を欺かなければ、君が民を思うことは赤子を保護するようである。役人が誠をもって君に仕え、誠をもってその職にいれば、ことごとく直言の臣、法に従う善い役人である。堯舜のような君、稷・契・皐陶のような□□、四方八隅みな道ある民と言うのも、この不妄語を基とすべきである。このように年月を経て守れば、聖賢の地位にも到らないものではないのである。
解説

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『初学訓』巻之一一仁義礼智の真実にして偽なき理を信といふ。信はまことなり。まことなければ、仁義礼智も偽となり、万の善も、皆あだことなり。仁義礼智の四徳に、信をくはへて五常とす。又、五性といふ。性とは、心に生れつきたる理なり。此五性は、万世まで人にうまれつきて、かはらざる理なれば、五常といふ。百行万善、皆五常より出づ。五常を以て、万善をかねたり。人の心とするは、此五にあり。此外に心を求むるは、天地聖人の道にあらず。
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『五常訓』巻之五・信信は、天道にていはば誠なり。真実無妄を誠と云ふ。天道に春夏秋冬の四時あり。其内に土用あり。四時に元亨利貞の四徳あり。四徳の実にして、万世までたがはざるは誠なり。人に仁義礼智ありて、其内に信ある亦かくの如し。元亨利貞、四時のめぐりの序ちがはざるは、即誠なり。天道の、春生じ、夏長じ、秋をさめ、冬かくすこと、年々同じく、日月のめぐり、四時の温熱涼寒、人物のかたちも性も、万古より今に至りてかはらず。桃花は年々紅に、李花は年々白きも、皆是天道の誠たがはざるなり。天道にありては誠と云ひ、人に生れつきては信と云ふ。天にあり、人にある、理は一なり。
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『大和俗訓』巻之五・言語一言をつつしみて、一言を出すにも、よく思案して物をいへば、言語はおのづから少なし。むりに口をとぢて言はざるにはあらず。一ことばをば必信にすべし。かりそめの少なる事にも、いつはるべからず。其事は少なりとも、心を害する咎は大なり。まことの道を失へばなり。故に万の事うるはしくとも、いつはりをいふは人にあらず。我が心の神は、則天地の神なり。おそるべし。心にいつはりと知らば言ふべからず。偽と知りてわが心をあざむくは、罪ふかし。
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『五常訓』巻之五・信一信は説文に曰く、誠なり、人に从ひ言に从ふ、会意。徐曰く、文に於て人の言を信と為す、言ひて信ならざれば人為るに非ざるなり。信の字、人偏に言の字を書くは、六書においては、会意に属す。偏旁の意を以て作りし字なり。いふ意は、人の言に誠あらざるは、人にあらず。故に人の言は、必信あるべしと云ふ意なり。五常においては、心にまことあるを云ふ。口に偽をいはざるも、其内にあり。仁義礼智の、いつはりなき真実なるを、信と云ふ。信なければ、仁義礼智にあらず。仁義礼智四徳の外に、又信あるにあらず。親によくつかふるは孝なれど、名聞のためにつとめ、又親の寵愛をねがひて務むるは、孝にあらず。君によく仕ふるは忠なれど、君の寵をねがひ、官禄をむさぼりて、奉公をつとむるは、忠にあらず。
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『弁名』誠檀弓に曰く、「伯高の喪に、孔氏の使者未だ至らず。冉子、束帛乗馬を摂りて之を将ふ。孔子曰く、異なるかな、徒らに我をして伯高に誠ならざらしむ」と。是れ伯高既に死す、死者は知無し、故に孔子不誠を悪むなり。又た曰く、「喪三日にして殯す。凡そ身に附くる者は、必ず誠に必ず信にして、之れ悔い有ること勿きのみ。三月にして葬る。凡そ棺に附くる者は、必ず誠に必ず信にして、之れ悔い有ること勿きのみ」と。是れ言ふこころは、凡そ我が中心より発して為さんと欲する所の者有れば、則ち之を為して復た顧慮すること無し、是れ誠なり。信は疑はざるを謂ふなり。凡そ心に安からざる所有る者は、則ち為さず、是れ信なり。皆死者を待つの道なり。郊特牲に曰く、「犢を用ふるは、誠を貴ぶなり」と。是れ天を祭ると、天子の諸侯に適くと、膳に皆犢を用ふ。犢は知無き者なり。天の徳は誠なり、故に之を用ふ。天子を尊びて天に比す、故に亦た之を用ふ。僅かに此の類のみ。
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『五常訓』巻之五・信是皆まことの道にあらず。忠孝にかぎらず、万事皆かくの如し。中庸に、不誠無物といへり。物なしとは、偽りて実なきなり。親につかへ、君につかふるに、誠なくして、右にいへる如くなれば、忠孝にあらず。是物なきなり。万の事、皆誠なければ物なし。凡名と利とを求めてする事は、たとひ天下に聞ゆるほどの善なりとも、其心真実ならざれば私とす。善にあらず。是物なきなり。四徳に誠なければ、仁義礼智にあらず、いつはりなり。是物なきなり。人の、天より生れつきたる性は、唯仁義礼智の四徳なり。此四徳にて、人道行はる。此故に、孟子は、ただ仁義礼智を説きて、信を説き給はず。程子曰く、四端に信を言はざるは、既に誠心有りて四端と為れば、則ち信其の中に在ればなり。これを以て、仁義礼智の外に、信なきことを知るべし。