十善法語 / 巻第二・不偸盜戒
不殺生戒ハ。人間ハ大切ナルモノソ。貴ムヘキモノソ。殺シテハ大罪ニナル。ミタリニ打ナ。タタクナ。キツツケルナト云ハ。上ハ王公大人ヨリ。下ハ士農工商。傭夫奴婢マテモ。教ヘ導キテ。身ニ行ヒ心ニ得サセラルルシヤ。生トシ生ル者ハ皆人間ニ緣有者ソ。此モミタリニ殺スナ。打ナ痛メルナト云ヘハ。上ハ王公大人ヨリ。下傭夫船頭馬子。奴婢小兒ニ至ルマテ。教ヘ導キテ身ニ行ヒ心ニ得サセラルルシヤ。一日此戒ヲ守レハ。其日カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。一年行スレハ。其年カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。終身守レハ。一生賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一生如是ナレハ。當來世モ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。生生ノ處。生レ儘ニ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒナラハ。菩薩ト云名モ外ニ有マシキシヤ。一人守レハ其人カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一家守レハ其家カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一村守レハ其村カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。一國守レハ其國カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。萬國奉行セハ萬國カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。萬國如是ナラハ淨土ト云名モ外ニハ有マシキコトシヤ。
新字:不殺生戒ハ。人間ハ大切ナルモノソ。貴ムヘキモノソ。殺シテハ大罪ニナル。ミタリニ打ナ。タタクナ。キツツケルナト云ハ。上ハ王公大人ヨリ。下ハ士農工商。傭夫奴婢マテモ。教ヘ導キテ。身ニ行ヒ心ニ得サセラルルシヤ。生トシ生ル者ハ皆人間ニ縁有者ソ。此モミタリニ殺スナ。打ナ痛メルナト云ヘハ。上ハ王公大人ヨリ。下傭夫船頭馬子。奴婢小児ニ至ルマテ。教ヘ導キテ身ニ行ヒ心ニ得サセラルルシヤ。一日此戒ヲ守レハ。其日カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。一年行スレハ。其年カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。終身守レハ。一生賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一生如是ナレハ。当来世モ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。生生ノ処。生レ儘ニ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒナラハ。菩薩ト云名モ外ニ有マシキシヤ。一人守レハ其人カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一家守レハ其家カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一村守レハ其村カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。一国守レハ其国カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。万国奉行セハ万国カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。万国如是ナラハ浄土ト云名モ外ニハ有マシキコトシヤ。
書き下し
不殺生戒ハ。人間ハ大切ナルモノソ。貴ムヘキモノソ。殺シテハ大罪ニナル。ミタリニ打ナ。タタクナ。キツツケルナト云ハ。上ハ王公大人ヨリ。下ハ士農工商。傭夫奴婢マテモ。教ヘ導キテ。身ニ行ヒ心ニ得サセラルルシヤ。生トシ生ル者ハ皆人間ニ縁有者ソ。此モミタリニ殺スナ。打ナ痛メルナト云ヘハ。上ハ王公大人ヨリ。下傭夫船頭馬子。奴婢小児ニ至ルマテ。教ヘ導キテ身ニ行ヒ心ニ得サセラルルシヤ。一日此戒ヲ守レハ。其日カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。一年行スレハ。其年カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。終身守レハ。一生賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一生如是ナレハ。当来世モ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。生生ノ処。生レ儘ニ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒナラハ。菩薩ト云名モ外ニ有マシキシヤ。一人守レハ其人カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一家守レハ其家カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。一村守レハ其村カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀シヤ。一国守レハ其国カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。万国奉行セハ万国カ賢聖ノ行慈悲者ノ儀ヒシヤ。万国如是ナラハ浄土ト云名モ外ニハ有マシキコトシヤ。
現代語訳
不殺生戒は、「人間は大切なものだぞ。尊ぶべきものだぞ。殺しては大罪になる。みだりに打つな、叩くな、傷つけるな」と言えば、上は王公大人から、下は士農工商、雇われ人や召使いまでも、教え導いて、身に行わせ心に得させることができるのである。「生きとし生けるものはみな人間に縁のある者だぞ。これもみだりに殺すな、打つな、痛めるな」と言えば、上は王公大人から、下は雇われ人・船頭・馬子、召使いや幼子に至るまで、教え導いて身に行わせ心に得させることができるのである。一日この戒を守れば、その日が賢聖の行い、慈悲者の姿である。一年行えば、その年が賢聖の行い、慈悲者の姿である。終身守れば、一生が賢聖の行い、慈悲者の姿である。一生がこのようであれば、来世も賢聖の行い、慈悲者の姿である。生まれ変わる所ごとに、生まれたままに賢聖の行い、慈悲者の姿であるならば、菩薩という名も外にあるはずがないのである。一人が守ればその人が賢聖の行い、慈悲者の姿である。一家が守ればその家が、一村が守ればその村が、一国が守ればその国が、賢聖の行い、慈悲者の姿である。万国が奉じ行えば万国が賢聖の行い、慈悲者の姿である。万国がこのようであれば、浄土という名も外にはあるはずのないことである。
解説
この章句が説くこと
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