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十善法語 / 巻第二・不偸盜戒

又或者カ云。佛法ハ跡サキノソロハヌ教シヤ。閻魔王ハ刑法嚴烈ニテ。小罪ヲ許サス罰スレトモ。阿彌陀佛ノ慈悲カ過テ。罪ヲ贖フコト心易キ故。惡事ノ止時節カナキト。此ハ近代淨土家等ノ中。一類ノ弊儀ヲ。佛法ノ樣ニ思テ。嘲弄シテ云タ言葉シヤ。三經一論十住毗婆沙論ナトヲ看ヨ。此謬ハ有マシキコトシヤ。淨土家モ眞ノ者ハカクハ言ハヌ。善事ヲ廢スルコトハセヌシヤ。又或者カ云。佛法ニ依ル者ハ人品野鄙ニナル。麁暴ニナル。放蕩ニシテ禮義格式ヲモ亂ルト。是ハ近代ノ禪家ノ中。一類ノ弊儀ヲ佛法ノ樣ニ思テ。如法沙門ニ遇ヌ者ノ言葉シヤ。禪家モ眞ノ者ハ威儀マテモ具ル。萬事ニ愼ミ有シヤ。

新字:又或者カ云。仏法ハ跡サキノソロハヌ教シヤ。閻魔王ハ刑法厳烈ニテ。小罪ヲ許サス罰スレトモ。阿弥陀仏ノ慈悲カ過テ。罪ヲ贖フコト心易キ故。悪事ノ止時節カナキト。此ハ近代浄土家等ノ中。一類ノ弊儀ヲ。仏法ノ様ニ思テ。嘲弄シテ云タ言葉シヤ。三経一論十住毗婆沙論ナトヲ看ヨ。此謬ハ有マシキコトシヤ。浄土家モ真ノ者ハカクハ言ハヌ。善事ヲ廃スルコトハセヌシヤ。又或者カ云。仏法ニ依ル者ハ人品野鄙ニナル。麁暴ニナル。放蕩ニシテ礼義格式ヲモ乱ルト。是ハ近代ノ禅家ノ中。一類ノ弊儀ヲ仏法ノ様ニ思テ。如法沙門ニ遇ヌ者ノ言葉シヤ。禅家モ真ノ者ハ威儀マテモ具ル。万事ニ慎ミ有シヤ。

書き下し

又或者カ云。仏法ハ跡サキノソロハヌ教シヤ。閻魔王ハ刑法厳烈ニテ。小罪ヲ許サス罰スレトモ。阿弥陀仏ノ慈悲カ過テ。罪ヲ贖フコト心易キ故。悪事ノ止時節カナキト。此ハ近代浄土家等ノ中。一類ノ弊儀ヲ。仏法ノ様ニ思テ。嘲弄シテ云タ言葉シヤ。三経一論十住毗婆沙論ナトヲ看ヨ。此謬ハ有マシキコトシヤ。浄土家モ真ノ者ハカクハ言ハヌ。善事ヲ廃スルコトハセヌシヤ。又或者カ云。仏法ニ依ル者ハ人品野鄙ニナル。麁暴ニナル。放蕩ニシテ礼義格式ヲモ乱ルト。是ハ近代ノ禅家ノ中。一類ノ弊儀ヲ仏法ノ様ニ思テ。如法沙門ニ遇ヌ者ノ言葉シヤ。禅家モ真ノ者ハ威儀マテモ具ル。万事ニ慎ミ有シヤ。

現代語訳

またある者が言う。「仏法はつじつまの合わない教えである。閻魔王は刑罰が厳しく激しくて小さな罪も許さず罰するけれども、阿弥陀仏の慈悲が過ぎて、罪を贖うことがたやすいので、悪事の止む時節がない」と。これは近代の浄土家などの中の、ある類の弊害ある風儀を仏法のように思って、嘲って言った言葉である。浄土三部経や往生論、十住毘婆沙論などを見よ。この誤りはあるはずのないことである。浄土家も真の者はこのようには言わない。善事を廃することはしないのである。またある者が言う。「仏法に依る者は人柄が野卑になる。粗暴になる。放蕩で礼儀格式をも乱す」と。これは近代の禅家の中の、ある類の弊害ある風儀を仏法のように思って、如法の沙門に出会わなかった者の言葉である。禅家も真の者は立ち居振る舞いまでも具えている。万事に慎みがあるのである。

解説

仏教への二つの批判を取り上げる。一つは、閻魔王は厳しいのに阿弥陀仏はたやすく罪を許すので、かえって悪が止まないというもの。尊者は、それは善行を軽んじる一部の浄土門の風潮を見た誤解で、浄土の経論を読めばそうは説かれていないと言う。もう一つは、仏法を学ぶと粗野で礼儀知らずになるというもので、これも型破りを気取る一部の禅僧を見ての誤解だとする。どの宗派にも真の者と弊風があり、弊風だけで全体を裁くのは誤りだという公平な態度が貫かれている。

この章句が説くこと

浄土弊風慎み威儀仏法

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