十善法語 / 巻第二・不偸盜戒
又或者云。異端ノ虛無寂滅ノ教ハ。其高キ大學ニ過レトモ實ナシト。此モ佛法ノ大綱ニ昧ク。虛頭ニ走ル禪者。或ハ名相ニ滯ル教家ノ言ヲ。佛法ノ樣ニ思テ云タ言葉シヤ。近クハ此十善戒ヲ憶念シテ看ヨ。句句實カアリ用アルシヤ。是ヲ人事ニ用テ。一日モ忽カセニナラヌコトシヤ。佛滅後ヨリ二千七百餘年。天竺ヨリ支那。支那ヨリ我邦。相承シ來テ其則差ハヌ。此ヲ家ニ用テ子孫ソノ福ヲ受ク。此ヲ國ニ用テ君臣共ニ安イ。佛法ノ實有コト信セネハナラヌシヤ。
新字:又或者云。異端ノ虚無寂滅ノ教ハ。其高キ大学ニ過レトモ実ナシト。此モ仏法ノ大綱ニ昧ク。虚頭ニ走ル禅者。或ハ名相ニ滞ル教家ノ言ヲ。仏法ノ様ニ思テ云タ言葉シヤ。近クハ此十善戒ヲ憶念シテ看ヨ。句句実カアリ用アルシヤ。是ヲ人事ニ用テ。一日モ忽カセニナラヌコトシヤ。仏滅後ヨリ二千七百余年。天竺ヨリ支那。支那ヨリ我邦。相承シ来テ其則差ハヌ。此ヲ家ニ用テ子孫ソノ福ヲ受ク。此ヲ国ニ用テ君臣共ニ安イ。仏法ノ実有コト信セネハナラヌシヤ。
書き下し
又或者云。異端ノ虚無寂滅ノ教ハ。其高キ大学ニ過レトモ実ナシト。此モ仏法ノ大綱ニ昧ク。虚頭ニ走ル禅者。或ハ名相ニ滞ル教家ノ言ヲ。仏法ノ様ニ思テ云タ言葉シヤ。近クハ此十善戒ヲ憶念シテ看ヨ。句句実カアリ用アルシヤ。是ヲ人事ニ用テ。一日モ忽カセニナラヌコトシヤ。仏滅後ヨリ二千七百余年。天竺ヨリ支那。支那ヨリ我邦。相承シ来テ其則差ハヌ。此ヲ家ニ用テ子孫ソノ福ヲ受ク。此ヲ国ニ用テ君臣共ニ安イ。仏法ノ実有コト信セネハナラヌシヤ。
現代語訳
またある者が言う。「異端の虚無寂滅の教えは、その高さは大学を超えているけれども実がない」と。これも仏法の大綱に暗く、空虚な所へ走る禅者、あるいは名目や教理にとどこおる教家の言葉を、仏法のように思って言った言葉である。身近にこの十善戒を思いめぐらして見よ。一句一句に実があり用があるのである。これを人の事に用いて、一日もおろそかにはならないことである。仏滅後二千七百余年、天竺から中国、中国からわが国へと相承して来て、その規則は違わない。これを家に用いて子孫がその福を受ける。これを国に用いて君臣ともに安らかである。仏法に実があることを信じないわけにはいかないのである。
解説

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