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十善法語 / 巻第二・不偸盜戒

又經中ニ。或時一ノ鴿。鷹ニ逐レテ廊下ニ墮ツ。舍利弗尊者ノ影ノ內ニ在テハ怖レオノノキ。世尊ノ影ノ內ニ在テハ安ラカニ住セシトアル。此モ舍利弗尊者ハ嗔恚ノ餘習未盡ス。世尊ハ無量却來大慈大悲ノ熏スル姿ナル故。コノ差別アルト云コトシヤ。世教ニモ出世教ニモ道ニ依ル者ノ怯弱ニナル理ハナキコトシヤ。一類ノ者カ云。佛法ハ心ヲ以テ心ヲ修スルハカリテ。世ヲ助ケ民ニ長タル用ニ立ヌ。儒ノ道ハ禮ヲ以テ身ヲ修ルニ因テ。人民ヲ教フル功アルト。此モ佛教ヲ知ラヌ者カ。宋元已來ノ弊儀ヲ佛法ノ樣ニ思テ云出ス言葉シヤ。佛法ノ中。此十善アルコトシヤ。

新字:又経中ニ。或時一ノ鴿。鷹ニ逐レテ廊下ニ堕ツ。舎利弗尊者ノ影ノ内ニ在テハ怖レオノノキ。世尊ノ影ノ内ニ在テハ安ラカニ住セシトアル。此モ舎利弗尊者ハ嗔恚ノ余習未尽ス。世尊ハ無量却来大慈大悲ノ熏スル姿ナル故。コノ差別アルト云コトシヤ。世教ニモ出世教ニモ道ニ依ル者ノ怯弱ニナル理ハナキコトシヤ。一類ノ者カ云。仏法ハ心ヲ以テ心ヲ修スルハカリテ。世ヲ助ケ民ニ長タル用ニ立ヌ。儒ノ道ハ礼ヲ以テ身ヲ修ルニ因テ。人民ヲ教フル功アルト。此モ仏教ヲ知ラヌ者カ。宋元已来ノ弊儀ヲ仏法ノ様ニ思テ云出ス言葉シヤ。仏法ノ中。此十善アルコトシヤ。

書き下し

又経中ニ。或時一ノ鴿。鷹ニ逐レテ廊下ニ堕ツ。舎利弗尊者ノ影ノ内ニ在テハ怖レオノノキ。世尊ノ影ノ内ニ在テハ安ラカニ住セシトアル。此モ舎利弗尊者ハ嗔恚ノ余習未尽ス。世尊ハ無量却来大慈大悲ノ熏スル姿ナル故。コノ差別アルト云コトシヤ。世教ニモ出世教ニモ道ニ依ル者ノ怯弱ニナル理ハナキコトシヤ。一類ノ者カ云。仏法ハ心ヲ以テ心ヲ修スルハカリテ。世ヲ助ケ民ニ長タル用ニ立ヌ。儒ノ道ハ礼ヲ以テ身ヲ修ルニ因テ。人民ヲ教フル功アルト。此モ仏教ヲ知ラヌ者カ。宋元已来ノ弊儀ヲ仏法ノ様ニ思テ云出ス言葉シヤ。仏法ノ中。此十善アルコトシヤ。

現代語訳

また経の中に、ある時、一羽の鳩が鷹に追われて廊下に落ちた。舎利弗尊者の影の内にいては恐れおののき、世尊の影の内にいては安らかにとどまったとある。これも舎利弗尊者は瞋恚の残りの習気がまだ尽きていない。世尊は無量劫以来の大慈大悲が薫った姿であるので、この差別があるということである。世の教えにも出世の教えにも、道に依る者が臆病になる理はないのである。ある類の者が言う。「仏法は心で心を修めるばかりで、世を助け民の長となる役には立たない。儒の道は礼で身を修めるから、人民を教える功がある」と。これも仏教を知らない者が、宋・元以来の弊害ある風儀を仏法のように思って言い出す言葉である。仏法の中に、この十善があることである。

解説

鷹に追われた鳩が、智慧第一の舎利弗の影では震え、釈尊の影では安らいだという話である。舎利弗にはまだ怒りの習気がわずかに残り、釈尊は限りない時をかけて慈悲が身に染みていたからだと説かれる。言葉や力でなく、存在そのものが相手に安心を与えるほどの慈悲である。後半では、仏法は心の修養ばかりで世を治める役に立たないという儒者の批判を取り上げ、それは後世の歪んだ仏教を見ての誤解であり、仏法には十善があると答える。人のそばにいるだけで相手が安らぐか、自分を省みたくなる。

この章句が説くこと

慈悲舎利弗習気瞋恚十善仏法

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