十善法語 / 巻第一・不殺生戒
第九ニ到ル處親愛シヤ。オソレハナキシヤ。外國ノ者カ此國ニ來テモ仁愛ヲ施ス。此國ノ者カ。海波ニ漂ハサレテ外國ニ行テモ接待迎送スル。不瞋恚戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ノ見レハ瞋リ逢ヘハカミアフヲ見ヨ。瞋恚業道ソノ影カクノ如クシヤ。唐書ニ象ノ禮節有ヲ記スル類。內典ニモ外典ニモ熊カ人ヲ救フタ事ノ類ハ。別途ノコトシヤ。第十ニ善惡邪正モ思惟スレハワカルル。心ヲ攝ムレハ攝メラルル。不邪見戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ナトヲヨク看ヨ。滿身ノ苦ミ。心ヲオサムルイトマモナキシヤ。勿論理非ヲ分別スルコトモナラヌモノシヤ。滿身ノ苦ミハ彼カ息ツカヒヲ見テ知レ。佛語ニ畜生ハ喘息安カラストアル。邪見業道ソノ影カクノ如クシヤ。經論諸傳ニ龍來テ法ヲ聽聞セシ類。師子月經ニ獼猴カ三歸ヲ受タ類ハ。別途ノ因緣シヤ。
新字:第九ニ到ル処親愛シヤ。オソレハナキシヤ。外国ノ者カ此国ニ来テモ仁愛ヲ施ス。此国ノ者カ。海波ニ漂ハサレテ外国ニ行テモ接待迎送スル。不瞋恚戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ノ見レハ瞋リ逢ヘハカミアフヲ見ヨ。瞋恚業道ソノ影カクノ如クシヤ。唐書ニ象ノ礼節有ヲ記スル類。内典ニモ外典ニモ熊カ人ヲ救フタ事ノ類ハ。別途ノコトシヤ。第十ニ善悪邪正モ思惟スレハワカルル。心ヲ摂ムレハ摂メラルル。不邪見戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ナトヲヨク看ヨ。満身ノ苦ミ。心ヲオサムルイトマモナキシヤ。勿論理非ヲ分別スルコトモナラヌモノシヤ。満身ノ苦ミハ彼カ息ツカヒヲ見テ知レ。仏語ニ畜生ハ喘息安カラストアル。邪見業道ソノ影カクノ如クシヤ。経論諸伝ニ竜来テ法ヲ聴聞セシ類。師子月経ニ獼猴カ三帰ヲ受タ類ハ。別途ノ因縁シヤ。
書き下し
第九ニ到ル処親愛シヤ。オソレハナキシヤ。外国ノ者カ此国ニ来テモ仁愛ヲ施ス。此国ノ者カ。海波ニ漂ハサレテ外国ニ行テモ接待迎送スル。不瞋恚戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ノ見レハ瞋リ逢ヘハカミアフヲ見ヨ。瞋恚業道ソノ影カクノ如クシヤ。唐書ニ象ノ礼節有ヲ記スル類。内典ニモ外典ニモ熊カ人ヲ救フタ事ノ類ハ。別途ノコトシヤ。第十ニ善悪邪正モ思惟スレハワカルル。心ヲ摂ムレハ摂メラルル。不邪見戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ナトヲヨク看ヨ。満身ノ苦ミ。心ヲオサムルイトマモナキシヤ。勿論理非ヲ分別スルコトモナラヌモノシヤ。満身ノ苦ミハ彼カ息ツカヒヲ見テ知レ。仏語ニ畜生ハ喘息安カラストアル。邪見業道ソノ影カクノ如クシヤ。経論諸伝ニ竜来テ法ヲ聴聞セシ類。師子月経ニ獼猴カ三帰ヲ受タ類ハ。別途ノ因縁シヤ。
現代語訳
第九に、至る所が親しみ愛する間柄である。恐れはないのである。外国の者がこの国に来ても仁愛を施す。この国の者が海の波に漂わされて外国に行っても、もてなし送り迎えをする。不瞋恚戒の影は、まずこうしたものである。畜生が、見れば怒り、会えば噛み合うのを見なさい。瞋恚の業道の影はこのようなのである。唐書に象に礼節があることを記した類、内典にも外典にも熊が人を救った事の類は、別のことである。第十に、善悪邪正も思惟すれば分かる。心を収めようとすれば収められる。不邪見戒の影は、まずこうしたものである。畜生などをよく見なさい。全身の苦しみで、心を収める暇もないのである。もちろん理非を分別することもできないものである。全身の苦しみは、彼らの息づかいを見て知りなさい。仏の言葉に、「畜生は喘ぎ息が安らかでない」とある。邪見の業道の影はこのようなのである。経論や諸伝に竜が来て法を聴聞した類、師子月経に猿が三帰依を受けた類は、別の因縁である。
解説

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