十善法語 / 巻第一・不殺生戒
第五ニ言語正ク五聲七音ワカルルシヤ。其義理カソナハルシヤ。不綺語戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ハ。牛ハ牛。馬ハ馬。杜鵑ハ杜鵑。鷺ハ鷺。各其一樣ノ聲ノミ有テ。其中事事不具足ナルシヤ。綺語業道ソノ影カクノ如クシヤ。佛經ノ中ニ。禽獸ノ語言セシ緣アリ。世典ノ中ニ。雀カ公冶長ニ告ケ。南山有虎ナトト云シ類ハ別途ノ事ニテ。禽獸ノアタリ前テハナキシヤ。第六ニ舌根モ柔輕ナルシヤ。詠歌諷吟モナセハナサルルシヤ。三管モ奏セラルル。經陀羅尼モ讀メハ讀マルルシヤ。不惡口戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ハ舌根麁獷ナルモノニテ。內外ノ經論ヲ讀コトモナラス。ヨキコトニ用ルコトノナラヌモノシヤ。鷺杜鵑山カラナトカ音聲ノ人間ノ耳ヲヨロコハシムルモ。彼カ自ノアタリマヘハ苦惱羸劣ノ聲シヤ。惡口業道。ソノ影カクノ如クシヤ。鸚鵡カ能ク言モ此ニ類シテ知レ。
新字:第五ニ言語正ク五声七音ワカルルシヤ。其義理カソナハルシヤ。不綺語戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ハ。牛ハ牛。馬ハ馬。杜鵑ハ杜鵑。鷺ハ鷺。各其一様ノ声ノミ有テ。其中事事不具足ナルシヤ。綺語業道ソノ影カクノ如クシヤ。仏経ノ中ニ。禽獣ノ語言セシ縁アリ。世典ノ中ニ。雀カ公冶長ニ告ケ。南山有虎ナトト云シ類ハ別途ノ事ニテ。禽獣ノアタリ前テハナキシヤ。第六ニ舌根モ柔軽ナルシヤ。詠歌諷吟モナセハナサルルシヤ。三管モ奏セラルル。経陀羅尼モ読メハ読マルルシヤ。不悪口戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ハ舌根麁獷ナルモノニテ。内外ノ経論ヲ読コトモナラス。ヨキコトニ用ルコトノナラヌモノシヤ。鷺杜鵑山カラナトカ音声ノ人間ノ耳ヲヨロコハシムルモ。彼カ自ノアタリマヘハ苦悩羸劣ノ声シヤ。悪口業道。ソノ影カクノ如クシヤ。鸚鵡カ能ク言モ此ニ類シテ知レ。
書き下し
第五ニ言語正ク五声七音ワカルルシヤ。其義理カソナハルシヤ。不綺語戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ハ。牛ハ牛。馬ハ馬。杜鵑ハ杜鵑。鷺ハ鷺。各其一様ノ声ノミ有テ。其中事事不具足ナルシヤ。綺語業道ソノ影カクノ如クシヤ。仏経ノ中ニ。禽獣ノ語言セシ縁アリ。世典ノ中ニ。雀カ公冶長ニ告ケ。南山有虎ナトト云シ類ハ別途ノ事ニテ。禽獣ノアタリ前テハナキシヤ。第六ニ舌根モ柔軽ナルシヤ。詠歌諷吟モナセハナサルルシヤ。三管モ奏セラルル。経陀羅尼モ読メハ読マルルシヤ。不悪口戒ノ影ハ先カウシタモノシヤ。畜生ハ舌根麁獷ナルモノニテ。内外ノ経論ヲ読コトモナラス。ヨキコトニ用ルコトノナラヌモノシヤ。鷺杜鵑山カラナトカ音声ノ人間ノ耳ヲヨロコハシムルモ。彼カ自ノアタリマヘハ苦悩羸劣ノ声シヤ。悪口業道。ソノ影カクノ如クシヤ。鸚鵡カ能ク言モ此ニ類シテ知レ。
現代語訳
第五に、言語が正しく、五声七音が分かれるのである。その義理が具わるのである。不綺語戒の影は、まずこうしたものである。畜生は、牛は牛、馬は馬、ほととぎすはほととぎす、鷺は鷺と、それぞれその一通りの声だけがあって、その中で事々に具わらないのである。綺語の業道の影はこのようなのである。仏の経の中に鳥獣が言葉を話した因縁があり、世俗の典籍の中に、雀が公冶長に告げて「南山に虎がいる」などと言った類は別のことであって、鳥獣の当たり前ではないのである。第六に、舌も柔らかいのである。詩歌を詠み吟じることも、しようと思えばできるのである。三管(笙・篳篥・笛)も奏でることができる。経や陀羅尼も読もうと思えば読めるのである。不悪口戒の影は、まずこうしたものである。畜生は舌が粗く硬いものであって、内外の経論を読むこともできず、よいことに用いることのできないものである。鷺やほととぎすや山雀などの声が人間の耳を喜ばせるのも、彼ら自身の当たり前は苦悩と弱り劣った声なのである。悪口の業道の影はこのようなのである。鸚鵡がよく言葉を話すのも、これに類して知りなさい。
解説

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