人物志 / 八觀
聖之為稱,明智之極明也。是故,觀其聰明,而所達之材可知也。
新字:聖之為称,明智之極明也。是故,観其聰明,而所達之材可知也。
書き下し
聖の称たるは、明智の極明なればなり。是の故に、其の聡明を観て、達する所の材知るべきなり。
現代語訳
聖という呼び名は、明と智がきわまった明らかさを指すものである。それゆえ、その人の聡明さを観れば、どこまで達する才であるかを知ることができる。
解説
八観の第八「聡明」の結び、そして八観全体の結びである。聖とは明智がきわまったものだと定義し、聡明さを観れば、その人がどこまで達する才かが分かると言う。直前では、材を等しくして学べば明なる者が師となり、力を比べて争えば智なる者が雄となり、徳を等しくすれば達する者が聖と称される、と述べられている。儒家は聖人を徳の完成者として描くが、劉劭は明と智、すなわち見通しと判断の力を聖の核心に置いた。人の才を分類し、最後に聡明をもって最上とする構成は、人材の器を見極めて適所に置く曹魏の人事思想をよく表している。能力や人柄が同程度の人々の中で、最後に差をつけるのは物事を見通す力であり、それは長く観てはじめて分かるものである。
関連する章句
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人物志・八觀材を鈞しくして学を好めば、明なる者師と為る。力を比べて争えば、智なる者雄と為る。徳を等しくして斉しければ、達なる者聖と称せらる。
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人物志・八觀何をか其の聡明を観て、以て達する所を知ると謂ふ。夫れ仁は徳の基なり、義は徳の節なり、礼は徳の文なり、信は徳の固なり、智は徳の帥なり。夫れ智は明より出づ。明の人に於けるは、猶ほ昼の白日を待ち、夜の燭火を待つがごとし。其の明益々盛んなる者は、見る所遠きに及ぶ。遠きに及ぶの明は難し。是の故に、業を守り学に勤むるも、未だ必ずしも材に及ばず。材芸精巧なるも、未だ必ずしも理に及ばず。理意晏給なるも、未だ必ずしも智に及ばず。智能く事を経るも、未だ必ずしも道に及ばず。道思玄遠にして、然る後に乃ち周し。是れ学は材に及ばず、材は理に及ばず、理は智に及ばず、智は道に及ばずと謂ふ。道は、回復変通するものなり。是の故に、別ちて之を論ずれば、各自独り行へば、則ち仁勝ると為し、合はせて倶に用ふれば、則ち明将と為る。故に明を以て仁を将ゐれば、則ち懐かざる無く、明を以て義を将ゐれば、則ち勝たざる無く、明を以て理を将ゐれば、則ち通ぜざる無し。然らば則ち、苟くも聡明無くんば、以て能く遂ぐる無し。故に声を好みて実克たざれば則ち恢く、弁を好みて礼至らざれば則ち煩はしく、法を好みて思深からざれば則ち刻く、術を好みて計足らざれば則ち偽る。是の故に、
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人物志・八觀八に曰く、其の聡明を観て、以て達する所を知る。
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人物志・九徵聡明なる者は、陰陽の精なり、陰陽清和なれば、則ち中叡にして外明なり。聖人は淳耀にして、能く二美を兼ね、微を知り章を知る。聖人に非ざる自りは、能く両つながら遂ぐる莫し。
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人物志・八觀然らば則ち、論顕らかにして正を揚ぐるは、白なり。言応を善くせざるは、玄なり。玄白を経緯するは、通なり。移易して正無きは、雑なり。未然を先識するは、聖なり。玄事を追思するは、叡なり。事を見ること人に過ぐるは、明なり。明を以て晦と為すは、智なり。微忽も必ず識るは、妙なり。美妙にして昧からざるは、疏なり。之を測りて益々深きは、実なり。仮合して炫耀するは、虚なり。
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人物志・八觀八観とは、一に曰く、其の奪救を観て、以て間雑を明らかにす。二に曰く、其の感変を観て、以て常度を審らかにす。三に曰く、其の志質を観て、以て其の名を知る。四に曰く、其の所由を観て、以て依似を弁ず。五に曰く、其の愛敬を観て、以て通塞を知る。六に曰く、其の情機を観て、以て恕惑を弁ず。
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