人物志 / 材能
或曰:人材有能大而不能小,猶函牛之鼎不可以烹雞;愚以為此非名也。夫能之為言,已定之稱;豈有能大而不能小乎?凡所謂能大而不能小,其語出於性有寬急;性有寬急,故宜有大小。
新字:或曰:人材有能大而不能小,猶函牛之鼎不可以烹鶏;愚以為此非名也。夫能之為言,已定之称;豈有能大而不能小乎?凡所謂能大而不能小,其語出於性有寛急;性有寛急,故宜有大小。
書き下し
或ひと曰く、「人材に大を能くして小を能くせざる有り、猶ほ函牛の鼎は以て雞を烹るべからざるがごとし」と。愚以為へらく此れ名に非ざるなり。夫れ能の言為る、已定の称なり。豈に大を能くして小を能くせざる有らんや。凡そ所謂大を能くして小を能くせずとは、其の語は性に寛急有るに出づ。性に寛急有り、故に宜しく大小有るべし。
現代語訳
ある人は言う、「人材には大きなことはできても小さなことはできない者がいる。ちょうど牛を丸ごと入れる大鼎では鶏を煮ることができないようなものだ」と。私はこれは正しい言い方ではないと思う。そもそも「能」という言葉は、すでに定まった力を指す呼び名である。大きなことができて小さなことができないということがあろうか。およそいわゆる「大はできるが小はできない」という言葉は、性格にゆったりしたものと性急なものがあることから出ている。性格に寛急があるから、大小それぞれに適したところがあるのである。
解説
材能篇の冒頭で、「大事はできるが小事はできない人がいる」という通説に劉劭が異を唱える一節である。牛を煮る大鼎で鶏は煮られないという譬えは、大人物を小さな仕事に使うなという意味で広く言われていた。劉劭は、能力とは確定した力の名であり、大ができるなら小もできるはずだと論じる。そのうえで、通説が本当に言い当てているのは能力の大小ではなく、性格の寛急、つまりゆったりした人と細かくせっかちな人の違いであり、それぞれに向く仕事の規模が違うだけだと整理し直す。現代でも「あの人は大局型だから細かい仕事はできない」と言いがちだが、それは能力ではなく適性の話だと切り分ける視点になる。
関連する章句
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人物志・材能然らば則ち郡と県とは、体を異にするの大小なる者なり。実理の寛急を以て之を論弁すれば、則ち当に大小宜しきを異にすと言ふべく、当に大を能くして小を能くせずと言ふべからざるなり。若し夫れ雞と牛とも、亦体を異にするの小大なり、故に鼎も亦宜しく大小有るべし。若し以て犢を烹れば、則ち豈に雞を烹ること能はざらんや。故に能く大郡を治むれば、則ち亦能く小郡を治む。此を推して之を論ずれば、
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人物志・材能人材は各々宜しき所有り、独り大小の謂いのみに非ざるなり。
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人物志・材能凡そ此の能は、皆偏材の人なり。故に或いは能く言ひて行ふこと能はず、或いは能く行ひて言ふこと能はず。国体の人に至りては、能く言ひ能く行ふ、故に衆材の雋たり。人君の能は此に異なる。
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人物志・材能又国に俗化有り、民に劇易有り。而して人材同じからず、故に政に得失有り。是を以て、
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人物志・材能夫れ人材同じからず、能は各異なる有り。自任の能有り、立法使人の能有り、消息弁護の能有り、徳教を以て人に師たるの能、行事使人譴譲の能有り、司察糾摘の能有り、権奇の能有り、威猛の能有り。夫れ能は材より出で、材は量を同じくせず。材能既に殊なれば、政に任ずるも亦異なる。是の故に、自任の能は、清節の材なり、故に朝に在りては、則ち冢宰の任、国の為にしては、則ち矯直の政なり。立法の能は、治家の材なり、故に朝に在りては、則ち司寇の任、国の為にしては、則ち公正の政なり。計策の能は、術家の材なり、故に朝に在りては、則ち三孤の任、国の為にしては、則ち変化の政なり。人事の能は、智意の材なり、故に朝に在りては、則ち冢宰の佐、国の為にしては、則ち諧合の政なり。行事の能は、譴譲の材なり、故に朝に在りては、則ち司寇の佐、国の為にしては、則ち督責の政なり。権奇の能は、伎倆の材なり、故に朝に在りては、則ち司空の任、国の為にしては、則ち芸事の政なり。司察の能は、臧否の材なり、故に朝に在りては、則ち師氏の佐、国の為にしては、則ち刻削の政なり。威猛の能は、豪傑の材なり、故に朝に在りては、則ち将帥の任、国の為にしては、則ち厳厲の政なり。
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人物志・材能寛弘の人は、宜しく郡国を為すべし。下をして其の功を施すを得しめて、其の事を総成す。急小の人は、宜しく百里を理むべし。事を己に辦ぜしむ。
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