自警録 / 第七章 譏謗に対する態度・悪口に対する理想的態度(1)
しかしこれについてはくれぐれも心得たきことがある。すなわち白隠和尚の態度のごときは日ごろの修養ある者でなければ、為すべきことでない。かく言えば、前に説いたことと矛盾するらしく思われるがそうでない。日ごろこれらの修養を欠く人が、ある一事にかかることを為すと、自分はともかく、他人に大なる迷惑をかけ、しかしてかえって悪事を為すことを奨励するに傾きがちである。白隠なりしゆえ、後日に至り疑いも解け、差し支えなかったが、しかし世間では、ややもすれば白隠以外の、しかも良からぬ人が、実際自分の私生児を引き取り、白隠の言葉を借用して聖人の行為を真似る虞が多い。 米国の南北戦争にクエーカー宗の人々は非戦論を唱えて、戦時税を払わず、兵役にもつかず、ために当時の政府はその処分について少なからず苦しんだ。法に従って彼らを罰せんか、惜むらくは彼らの中には有名の士君子が多く、かつこれらの人は日ごろ社会百般の事柄に力を尽し、世間の信用と敬愛とを受けている。法に従い罰するに忍びぬ。ゆえに止むを得ず一時の権宜として、彼らには軍法を応用せず、兵役も免じ、納税の義務も免じた。
書き下し
しかしこれについてはくれぐれも心得たきことがある。すなわち白隠和尚の態度のごときは日ごろの修養ある者でなければ、為すべきことでない。かく言えば、前に説いたことと矛盾するらしく思われるがそうでない。日ごろこれらの修養を欠く人が、ある一事にかかることを為すと、自分はともかく、他人に大なる迷惑をかけ、しかしてかえって悪事を為すことを奨励するに傾きがちである。白隠なりしゆえ、後日に至り疑いも解け、差し支えなかったが、しかし世間では、ややもすれば白隠以外の、しかも良からぬ人が、実際自分の私生児を引き取り、白隠の言葉を借用して聖人の行為を真似る虞が多い。 米国の南北戦争にクエーカー宗の人々は非戦論を唱えて、戦時税を払わず、兵役にもつかず、ために当時の政府はその処分について少なからず苦しんだ。法に従って彼らを罰せんか、惜むらくは彼らの中には有名の士君子が多く、かつこれらの人は日ごろ社会百般の事柄に力を尽し、世間の信用と敬愛とを受けている。法に従い罰するに忍びぬ。ゆえに止むを得ず一時の権宜として、彼らには軍法を応用せず、兵役も免じ、納税の義務も免じた。
現代語訳
ただし、これについては、くれぐれも心得ておきたいことがあります。つまり、白隠和尚のような態度は、日ごろ修養のある者でなければ、してはならないことです。こう言えば、前に説いたことと矛盾するように思われるかもしれませんが、そうではありません。日ごろ修養を欠いている人が、ある事でこのようなことをすると、自分はともかく、他人に大きな迷惑をかけ、そしてかえって悪事を奨励する方向に傾きがちです。白隠だったからこそ、後日に疑いも解け、差し支えなかったのですが、世間ではともすれば、白隠以外の、しかも良くない人が、実際に自分の私生児を引き取り、白隠の言葉を借りて聖人の行いを真似るおそれが多いのです。 アメリカの南北戦争のとき、クエーカー教徒の人々は非戦論を唱え、戦時税を払わず、兵役にもつかなかったため、当時の政府はその処分に少なからず苦しみました。法に従って彼らを罰しようとすれば、惜しいことに彼らの中には有名な君子が多く、しかもこれらの人々は日ごろ社会のあらゆる事柄に力を尽くして、世間の信用と敬愛を受けています。法に従って罰するのは忍びない。そこでやむを得ず、一時の方便として、彼らには軍法を適用せず、兵役も免じ、納税の義務も免じました。
解説

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自警録・第七章 譏謗に対する態度・悪口に対する理想的態度(2)これを見たるクエーカー宗以外の人々も、私もクエーカー、私もクエーカーというものが多く、政府はその真偽を弁別するに苦しみ、一々その人の日ごろの行状を審査し、たとえクエーカー宗に入れるものにしても、日ごろその主義を完うせざるものは、無遠慮に罰し、日ごろの行状が正しく、徳望高き人は特に穏便に取扱い、戦時だけ自分に都合よき主義を唱えたとても、平生の行状がこれに伴わないものは、ただ一場の言い前に過ぎずとして採用されなかった。白隠和尚は日ごろ修養を積み、平生の言行が正しく聖人たる資格あることを証明したゆえ、一時疑いを受けたことも、数年ならずして解けたのである。 ゆえにかかる場合に身を処すること同一筆法に出ても、日ごろの修養如何によりてその価値が著しく違う。白隠の談は美事であるが、僕はこの筆法をすぐに各自に応用するを憚かる。しからば何ゆえにこの例を掲げたかというに、日ごろの行状を謹み、日常の信用を厚うするだけの慎みをなさねばならぬことを勧めたいからである。この点に謹慎し、修養していれば、一時いかなる非難非譏を受けたとても、何らの弁解を試みずして能く晴天白日の身となり得ると思う。悪口に対する吾人の理想的態度は無言実行の弁解をもってすべきであると思う。いかに人はかれこれいうとも己れさえ道を蹈むことを怠らずば、何の策を弄せずとも、いつの間にか黒白判然するものである。要は「本来清浄」を守るにある。さすれば人為人工を用うるに及ばぬ。かく思うと左の歌は教訓的に解しても面白い。 人住まぬ山里なれど春くれば柳はみどり花はくれなゐ
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自警録・第七章 譏謗に対する態度・言語よりも実行をもって弁解せよ(2)歴史上の事実としては真実を伝うることは無論必要であるが、お互いの日々の心得としての立場より見て、いかなる心がけにてこの場合に処するかといえば、僕はやはり弁解説明する必要がないと思う。もしこれがために他人に迷惑を及ぼすことがあれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。もし強いて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。 白隠和尚はその檀家の娘が妊娠して和尚の種子を宿したと白状したとき、世人から生ぐさ坊主と非難されても、平然として、 「ああそうかい」 と言い、生まれた後は、自分でその子を懐きなどしていたが、後、和尚の種子でなく、娘は一時のがれに和尚の名を汚したことが明らかになった時も、また、 「ああそうかい」 といって世間の毀誉褒貶に無頓着であったという。僕は悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。 僕の日ごろ愛読する書物にこういう言がある。 「何をもって謗を熄むる、曰く無弁。何をもって怨を止むる、曰く争わず」 と、また、 「人の我を謗るやその能く弁ぜんよりは、能く容るるに如かず。人の我を侮るや、その能く防がんよりは、能く化するに如かず」と。 実に尽せる言である。
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