囲炉夜話 / 第二百十五則・依樣の葫蘆
為人循矩度,而不見精神,則登場之傀儡也。 作事守章程,而不知權變,則依樣之葫蘆也。
新字:為人循矩度,而不見精神,則登場之傀儡也。 作事守章程,而不知権変,則依様之葫蘆也。
書き下し
人と為りて矩度に循ひて、精神を見ざれば、則ち登場の傀儡なり。 事を作して章程を守りて、權變を知らざれば、則ち依樣の葫蘆なり。
現代語訳
人として決まりに従っていても、そこに生きた精神が見えなければ、舞台に上がった操り人形です。仕事をするのに規則を守っていても、臨機応変を知らなければ、手本どおりに描いただけの瓢箪です。
解説
形を守るだけで中身のない人と仕事を、二つのたとえで戒める対句です。矩度とは作法や決まりのことです。決まりどおりに振る舞っていても、生き生きとした精神がなければ、舞台の上で糸に操られる人形と同じだと言います。下の句の依様葫蘆は、手本の瓢箪をそのままなぞって描くことで、型をまねるだけで工夫のないことのたとえです。章程、つまり規則を守っても、権変、つまり状況に応じた判断を知らなければ、それと同じだと言います。マニュアルどおりに動くことと、その目的を分かって動くことの違いを考えさせる句です。
この章句が説くこと
権変形式精神処世仕事
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