囲炉夜話 / 第百六十四則・經常に背く者は皆な異端
人知佛老為異端,不知凡背乎經常者,皆異端也。 人知楊默為邪說,不知凡涉於虛誕者,皆邪說也。
新字:人知仏老為異端,不知凡背乎経常者,皆異端也。 人知楊黙為邪説,不知凡渉於虚誕者,皆邪説也。
書き下し
人は佛老の異端為るを知りて、凡そ經常に背く者は、皆な異端なるを知らず。 人は楊默の邪說為るを知りて、凡そ虛誕に涉る者は、皆な邪說なるを知らざるなり。
現代語訳
人は仏教や老荘思想が異端であることは知っていますが、およそ人の常の道に背くものがすべて異端であることは知りません。人は楊墨(楊朱と墨翟)の説が邪説であることは知っていますが、およそでたらめな話に関わるものがすべて邪説であることは知りません。
解説
異端と邪説の範囲を、名札ではなく中身で決め直す対句です。儒者の立場では、仏教と老荘は異端、楊朱の自己本位の説と墨子の兼愛の説は邪説とされてきました。原文の「楊默」は楊墨の意味に取ります。著者はこの決まり文句に安住せず、人倫の常の道に背くものは、名前がどうであれすべて異端であり、根拠のない大げさな話はすべて邪説だと言います。身内の儒者であっても、常道を外れれば異端になるという厳しい見方です。ラベルで敵味方を分けるのは楽ですが、本当に見るべきは言っている中身です。自分の属する側の主張ほど、よく点検する必要があります。
この章句が説くこと
異端邪説常道儒学判断
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