囲炉夜話 / 第百三十九則・人は須らく孝悌より根基を立つべし
士必以詩書為性命。人須從孝悌立根基。
新字:士必以詩書為性命。人須従孝悌立根基。
書き下し
士は必ず詩書を以て性命と爲す。人は須らく孝悌より根基を立つべし。
現代語訳
士たる者は、必ず詩経や書経などの古典を命そのものとします。人は、孝行と兄弟の和から、自分の土台を築かねばなりません。
解説
士の命と人の土台を、それぞれ詩書と孝悌に置いた、短く力強い則です。詩書は詩経と書経のことで、ここでは儒学の古典全体を代表しています。士、つまり学問をする者にとっては、古典は趣味ではなく、性命、つまり生きることそのものだと言います。後半は、身分を問わずすべての人が、孝悌、つまり親に孝行し兄や年長者に従順であることから、人としての根を張るべきだと言います。論語学而篇の、孝弟なる者は其れ仁の本為るか、を踏まえた考えです。前半は学ぶ者の務め、後半は人としての基本で、学問も家庭の徳という根の上に立ってこそ実を結ぶという順序が見えます。今日でも、専門の知識を磨くことと、身近な家族を大切にすることは、どちらも欠かせない人生の土台です。

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孝孝悌読書古典修身
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『弁名』孝悌孝悌は解を待たず、人の皆知る所なり。但だ古に至徳と称する者三あり。泰伯の譲、文王の恭、及び孝を至徳要道と称する、是れなり。人貴賤と無く、父母有らざる莫し。父母之を膝下に生む。它の百行の如きは、或いは強壮にして乃ち能く之を行ふ。唯だ孝のみ幼きより行ふべし。它の百行は、或いは学ぶに非ずんば能く之を行ふ無し。唯だ孝のみ、心誠に之を求むれば、学ばずと雖も能くすべし。親は身の本、身は親の枝なり。故に人君は必ず其の志を継ぎ其の事を述ぶるを以て孝の至りと為し、臣下は必ず身を立て名を揚げ其の父母を顕はすを以て孝の至りと為す。唯だ孝のみ以て神明に通ずべく、唯だ孝のみ以て天地を感ぜしむべし。是れ其の至徳為る所以なり。天下を和順するは、必ず孝弟より始む。故に先王宗廟養老の礼を立てて、以て躬ら天下を教ふ。是れ其の要道為る所以なり。
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