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碧巌録 / 第四十一則

看趙州問。大死底人却活時如何。他便道。不許夜行。投明須到。直下如擊石火。似閃電光。還他向上人始得。大死底人。都無佛法道理玄妙得失是非長短。到這裏只恁麼休去。古人謂之平地上死人無數。過得荊棘林是好手。也須是透過那邊始得。雖然如是。如今人到這般田地。早是難得。或若有依倚有解會。則沒交涉。喆和尚謂之見不淨潔。五祖先師。謂之命根不斷。須是大死一番。却活始得。浙中永光和尚道。言鋒若差鄉關萬里。直須懸崖撒手。自肯承當。絕後再甦。欺君不得。非常之旨。人焉廋哉。趙州問意如此。投子是作家。亦不辜負他所問。只是絕情絕迹。不妨難會。只露面前些子。所以古人道。欲得親切。莫將問來問。問在答處。答在問處。若非投子。被趙州一問。也大難酬對。只為他是作家漢。舉著便知落處。頌云。廋。

新字:看趙州問。大死底人却活時如何。他便道。不許夜行。投明須到。直下如撃石火。似閃電光。還他向上人始得。大死底人。都無仏法道理玄妙得失是非長短。到這裏只恁麼休去。古人謂之平地上死人無数。過得荊棘林是好手。也須是透過那辺始得。雖然如是。如今人到這般田地。早是難得。或若有依倚有解会。則没交渉。喆和尚謂之見不浄潔。五祖先師。謂之命根不断。須是大死一番。却活始得。浙中永光和尚道。言鋒若差郷関万里。直須懸崖撒手。自肯承当。絶後再甦。欺君不得。非常之旨。人焉廋哉。趙州問意如此。投子是作家。亦不辜負他所問。只是絶情絶迹。不妨難会。只露面前些子。所以古人道。欲得親切。莫将問来問。問在答処。答在問処。若非投子。被趙州一問。也大難酬対。只為他是作家漢。舉著便知落処。頌云。廋。

書き下し

看よ趙州問ふ、「大死底の人、却つて活する時如何」。他便ち道ふ、「夜行を許さず、明に投じて須らく到るべし」。直下に石火を撃つが如く、閃電光に似たり。還つて他の向上の人にして始めて得し。大死底の人は、都て仏法・道理・玄妙・得失・是非・長短無し。這裏に到つて只だ恁麼に休し去る。古人之を「平地上に死人無数、荊棘林を過ぎ得るは是れ好手」と謂ふ。也た須らく那辺を透過して始めて得べし。是くの如くなりと雖然も、如今の人、這般の田地に到ることすら、早く是れ得難し。或いは若し依倚有り解会有らば、則ち没交渉。喆和尚之を「見、浄潔ならず」と謂ひ、五祖先師之を「命根断ぜず」と謂ふ。須らく是れ大死一番、却つて活して始めて得べし。浙中の永光和尚道ふ、「言鋒若し差へば郷関万里。直に須らく懸崖に手を撒して、自ら肯ひて承当すべし。絶後に再び甦る、君を欺くことを得ず。非常の旨、人焉んぞ廋さんや」。趙州の問意此くの如し。投子は是れ作家、亦た他の問ふ所に辜負せず。只だ是れ情を絶し迹を絶して、妨げず会し難きことを。只だ面前の些子を露はす。所以に古人道ふ、「親切を得んと欲せば、問を将ち来たつて問ふこと莫かれ。問は答処に在り、答は問処に在り」。若し投子に非ずんば、趙州に一問せられて、也た大いに酬対し難からん。只だ他が是れ作家漢なるが為に、挙著すれば便ち落処を知る。頌に云く。廋(字音の注)。

現代語訳

見よ、趙州が「大いに死にきった人が、却って生き返った時はどうか」と問うと、投子はすぐに「夜歩きは許さない。夜が明けてから必ず到れ」と言った。まさに火打ち石の火花のように、稲妻の光のように速い。向上の人であってはじめてこうはいく。大いに死にきった人には、仏法も道理も玄妙も、得失も是非も長短も一切ない。そこに到ってただそのまま休んでしまう。古人はこれを「平地の上に死人は無数にいる。茨の林を通り抜けてこそ腕利きだ」と言った。必ず向こう側まで突き抜けねばならない。そうではあるが、今の人はこうした境地に到ることさえ、もう得難いのである。もし何かに寄りかかったり、理解して分かったつもりになったりすれば、まったく関わりがない。喆和尚はこれを「見方が清浄でない」と言い、五祖先師は「命の根が断たれていない」と言った。必ず大いに一度死にきり、却って生き返ってこそである。浙中の永光和尚は言った。「言葉の鋒先が少しでも外れれば故郷は万里のかなた。崖にぶら下がった手をすぐに放して、自ら納得して引き受けよ。息絶えた後にふたたび蘇れば、君を欺くことはできない。並外れた旨は、どうして人が隠しおおせようか」。趙州の問いの意はこのようである。投子は練達の師家で、相手の問いに背くことがない。ただ情も跡も絶っているので、なかなか分かりにくい。目の前のわずかなところを露わにするだけである。それゆえ古人は言った。「親しく届くものを得たければ、問いを持ち出して問うてはならない。問いは答えのところにあり、答えは問いのところにある」。もし投子でなければ、趙州に一問されて、とても応じることはできなかったであろう。ただ彼が練達の者であったからこそ、取り上げられるやすぐに落ち着きどころを知ったのである。頌に言う。(「廋」は字音の注の見出し字。)

解説

圜悟の評唱の後半である。大死底の人とは、仏法や道理、得失や是非といった一切の物差しを捨て切った人を指す。だが圜悟は、そこで休んでしまうのは平地に転がる無数の死人にすぎず、茨の林を突き抜けて再び活きることが肝要だと説く。永光和尚の「懸崖に手を撒す」の語を引き、何かに寄りかかって分かったつもりになることを厳しく退ける。問いと答えが互いの中にあるという古人の言葉は、趙州と投子の応酬そのものを言い当てている。捨てることと、そこから立ち上がって働くことは、一続きの仕事なのである。

この章句が説くこと

大死悟り執着修行永光懸崖撒手

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