碧巌録 / 第四十則
古人道。盡乾坤大地。只是一箇自己。寒則普天普地寒。熱則普天普地熱。有則普天普地有。無則普天普地無。是則普天普地是。非則普天普地非。法眼云。渠渠渠。我我我。南北東西皆可可。不可可。但唯我無不可。所以道。天上天下唯我獨尊。石頭因看肇論。至此會萬物為自己處。豁然大悟。後作一本參同契。亦不出此意。看他恁麼問。且道。同什麼根。同那箇體。到這裏。也不妨奇特。豈同他常人。不知天之高地之厚。豈有恁麼事。陸亘大夫恁麼問。奇則甚奇。只是不出教意。若道教意是極則。世尊何故更拈花。祖師更西來作麼。
新字:古人道。尽乾坤大地。只是一箇自己。寒則普天普地寒。熱則普天普地熱。有則普天普地有。無則普天普地無。是則普天普地是。非則普天普地非。法眼云。渠渠渠。我我我。南北東西皆可可。不可可。但唯我無不可。所以道。天上天下唯我独尊。石頭因看肇論。至此会万物為自己処。豁然大悟。後作一本参同契。亦不出此意。看他恁麼問。且道。同什麼根。同那箇体。到這裏。也不妨奇特。豈同他常人。不知天之高地之厚。豈有恁麼事。陸亘大夫恁麼問。奇則甚奇。只是不出教意。若道教意是極則。世尊何故更拈花。祖師更西来作麼。
書き下し
古人道ふ、尽乾坤大地、只だ是れ一箇の自己。寒ければ則ち普天普地寒く、熱ければ則ち普天普地熱し。有なれば則ち普天普地有、無なれば則ち普天普地無。是なれば則ち普天普地是、非なれば則ち普天普地非と。法眼云く、渠渠渠、我我我、南北東西皆可可、不可可、但だ唯我のみ不可無しと。所以に道ふ、天上天下唯我独尊と。石頭肇論を看るに因りて、此の万物を会して自己と為す処に至りて、豁然として大悟す。後に一本の参同契を作る。亦た此の意を出でず。看よ他の恁麼に問ふことを。且く道へ、什麼の根にか同じき、那箇の体にか同じき。這裏に到りては、也た奇特なることを妨げず。豈に他の常人の、天の高く地の厚きことを知らざるに同じからんや。豈に恁麼の事有らんや。陸亘大夫恁麼に問ふ、奇なることは則ち甚だ奇なり。只だ是れ教意を出でず。若し教意を是れ極則と道はば、世尊何が故に更に花を拈ずる。祖師更に西来して作麼。
現代語訳
古人は言った、「天地と大地のすべてが、ただ一つの自己である。寒ければ天も地もことごとく寒く、暑ければ天も地もことごとく暑い。有ならば天も地もことごとく有、無ならば天も地もことごとく無。是ならば天も地もことごとく是、非ならば天も地もことごとく非である」。法眼は言った、「かれ、かれ、かれ。われ、われ、われ。南北東西みなよしよし。よしとしないのもよし。ただわれだけはよしとしないことがない」。だから「天上天下、唯我独尊」と言うのである。石頭は『肇論』を読んでいて、この「万物を会得して自己とする」ところに至り、からりと大悟した。のちに『参同契』一巻を作ったが、それもこの意を出るものではない。見よ、陸亘がこのように問うたのを。さて言ってみよ、何の根を同じくし、どの体を同じくするのか。ここに至っては、実に見事なことである。天の高さも地の厚さも知らない世の常の人とは、どうして同じであろうか。どうしてそんなことがあろうか。陸亘大夫がこのように問うたのは、すばらしいことにはすばらしいが、ただ経典の教えの意を出ていない。もし教えの意が究極だと言うのなら、世尊はなぜさらに花を拈じたのか。祖師はなぜさらに西から来たのか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第四十則陸亘大夫は久しく南泉に参じ、尋常心を理性の中に留め、肇論に游泳す。一日坐する次で、遂に此の両句を拈じて、以て奇特と為して、問うて云く、肇法師道く、天地と我と同根、万物と我と一体と。也た甚だ奇怪なり。肇法師は、乃ち晋時の高僧なり。生・融・叡と同じく羅什の門下に在り、之を四哲と謂ふ。幼年荘老を読むことを好む。後に古維摩経を写すに因りて、悟る処有り。方に荘老の猶ほ未だ善を尽くさざることを知る。故に諸経を綜べて、乃ち四論を造る。荘老の意に謂ふ、天地は形の大なるものなり、我が形も亦た爾り、同じく虚無の中に生ずと。荘生の大意は、只だ斉物を論ず。肇公の大意は、性を論じて皆自己に帰す。見ずや他の論中に道ふ、夫れ至人は空洞にして象無く、而も万物我が造に非ざるは無し。万物を会して自己と為す者は、其れ唯だ聖人か。神有り人有り賢有り聖有り、各別なりと雖も、而も皆同一性一体なりと。
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『碧巌録』第四十則挙す。陸亘大夫、南泉と語話する次で、陸云く、肇法師道く、天地と我と同根、万物と我と一体と。也た甚だ奇怪なり。南泉庭前の花を指して、大夫を召して云く、時人此の一株の花を見ること、夢の如くに相似たり。
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『碧巌録』第六則且く道へ、作麼生か是れ第一句。這裏に到つて、雪竇些かの意を露はして人をして見せしむ。爾但だ上に諸仏有ることを見ず、下に衆生有ることを見ず、外に山河大地有ることを見ず、内に見聞覚知有ることを見ず、大死底の人の却つて活するが如くに相似たらば、長短好悪、打成一片して、一一拈じ来るに更に異見無し。然る後に応用其の宜しきを失はず、方に他の「一を去却し、七を拈得す、上下四維等匹無し」と道ふを見ん。若し此の句に於て透得せば、直に上下四維に等匹有ること無きことを得ん。森羅万象、草芥人畜、著著全く自己の家風を彰す。所以に道ふ、「万象の中独り露はるる身、惟だ人自ら肯ひて乃ち方に親し。昔年謬つて途中に向つて覓む、今日看来れば火裏の氷」。天上天下唯我独尊。人多く末を逐うて其の本を求めず。先づ本正しきことを得ば、自然に風行き草偃し、水到り渠成る。
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『碧巌録』第四十則南泉は小睡語、雪竇は大睡語。夢を作すと雖然も、却つて箇の好夢を作し得たり。前頭には一体を説き、這裏には不同を説く。聞見覚知一一に非ず、山河は鏡中に在りて観ず。若し鏡中に在りて観じて、然る後に方に曉了すと道はば、則ち鏡処を離れず。山河大地、草木叢林、鏡を将て鑑みること莫れ。若し鏡を将て鑑みれば、便ち両段と為る。但だ只だ山は是れ山、水は是れ水なるべし。法は法位に住して、世間の相常住なり。山河は鏡中に在りて観ず、且く道へ、什麼の処に向いてか観ん。還た会すや。這裏に到りて、霜天月落ちて夜将に半ばならんとするに向いて、這辺は爾が与に打併し了れり、那辺は爾自ら相度れ。還た雪竇の本分の事を以て人の為にすることを知るや。誰と共にか澄潭影を照らして寒き。為復自ら照らすか、為復人と共に照らすか。須らく是れ機を絶し解を絶して、方に這の境界に到るべし。即今も也た澄潭を要せず、也た霜天月落を待たず。即今作麼生。
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『碧巌録』第四十則南泉の答ふる処は、衲僧の巴鼻を用ゐて、他の与に痛処を拈出して、他の窠窟を破す。遂に庭前の花を指して、大夫を召して云く、時人此の一株の花を見ること、夢の如くに相似たりと。人を引いて万丈の懸崖上に向かひて一推を打して、他をして命断ぜしむるが如し。爾若し平地上にて弥勒仏の下生するを推倒するも、也た只だ命断ずることを解せず。亦た人の夢に在りて、覚めんと欲して覚めざるに、人に喚び醒まさるるが如くに相似たり。南泉若し是れ眼目正しからずんば、必定他に搽糊せられ将ち去らん。看よ他の恁麼の説話、也た会し難きことを妨げず。若し是れ眼目定動する、活底聞得せば、醍醐の上味の如し。若し是れ死底聞得せば、翻つて毒薬と成る。古人道ふ、若し事上に於て見れば、常情に堕在す。若し意根下に向いて卜度すれば、卒に摸索不著ならんと。巌頭道ふ、此れは是れ向上人の活計、只だ目前の些子を露はす、電払の如くに同じと。南泉の大意は此の如し。虎兕を擒へ龍蛇を定むる底の手脚有り。這裏に到りては也た須らく是れ自ら会して始めて得べし。見ずや道ふ、向上の一路、千聖も伝へず、学者形を労すること猿の影を捉ふるが如しと。看よ他の雪竇の頌出することを。
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『碧巌録』第四十則聞見覚知一一に非ず、山河は鏡中に在りて観ず。霜天月落ちて夜将に半ばならんとす、誰と共にか澄潭影を照らして寒き。
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