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碧巌録 / 第三十則

有者道鎮州從來出大蘿蔔頭。天下人皆知。趙州從來參見南泉。天下人皆知。這僧却更問道。承聞和尚親見南泉是否。所以州向他道。鎮州出大蘿蔔頭。且得沒交涉。都不恁麼會。畢竟作麼生會。他家自有通霄路。不見僧問九峯。承聞和尚親見延壽來。是否。峯云。山前麥熟也未。正對得趙州答此僧話。渾似兩箇無孔鐵鎚。趙州老漢。是箇無事底人。爾輕輕問著。便換却爾眼睛。若是知有底人。細嚼來嚥。若是不知有底人。一似渾崙吞箇棗。

新字:有者道鎮州従来出大蘿蔔頭。天下人皆知。趙州従来参見南泉。天下人皆知。這僧却更問道。承聞和尚親見南泉是否。所以州向他道。鎮州出大蘿蔔頭。且得没交渉。都不恁麼会。畢竟作麼生会。他家自有通霄路。不見僧問九峯。承聞和尚親見延寿来。是否。峯云。山前麦熟也未。正対得趙州答此僧話。渾似両箇無孔鉄鎚。趙州老漢。是箇無事底人。爾軽軽問著。便換却爾眼睛。若是知有底人。細嚼来嚥。若是不知有底人。一似渾崙呑箇棗。

書き下し

有る者は道ふ、「鎮州は従来大蘿蔔頭を出だす、天下の人皆知る。趙州は従来南泉に参見す、天下の人皆知る。這の僧却って更に問うて道ふ、承り聞く和尚親しく南泉に見ゆと、是なりや否やと。所以に州他に向かって道ふ、鎮州に大蘿蔔頭を出だすと」。且く交渉没きことを得たり。都て恁麼に会せずんば、畢竟作麼生か会せん。他家自ら通霄の路有り。見ずや、僧、九峰に問ふ、「承り聞く和尚親しく延寿に見え来たると、是なりや否や」。峰云く、「山前の麦熟するや也た未だしや」。正に趙州の此の僧に答ふる話に対し得たり。渾て両箇の無孔の鉄鎚に似たり。趙州老漢は是れ箇の無事底の人なり。爾軽軽に問著すれば、便ち爾が眼睛を換却す。若し是れ有ることを知る底の人ならば、細かに嚼み来たって嚥まん。若し是れ有ることを知らざる底の人ならば、一に渾崙に箇の棗を呑むに似ん。

現代語訳

ある者は言う。「鎮州が昔から大きな大根を産することは、天下の人がみな知っている。趙州が昔から南泉に参じたことも、天下の人がみな知っている。それなのにこの僧はさらに『うけたまわるところでは、和尚はじかに南泉にお会いになったそうですが、本当ですか』と問うた。だから趙州は彼に向かって『鎮州では大きな大根がとれる』と言ったのだ」と。まったく関わりがない。そのように会得しないなら、結局どう会得するのか。彼の家にはおのずから天に通じる道がある。見たことがないか。ある僧が九峰に問うた。「うけたまわるところでは、和尚はじかに延寿にお会いになったそうですが、本当ですか」。九峰は言った。「山の前の麦はもう熟したか、まだか」。これはまさに趙州がこの僧に答えた話と対になる。どちらも柄を通す穴のない鉄の槌のようだ。趙州老人は何事もない人である。お前が軽々しく問えば、たちまちお前の眼の玉をすり替えてしまう。もし知っている人なら、よく噛んで呑み込むだろう。もし知らない人なら、まるで棗を丸呑みするようなものだ。

解説

圜悟の評唱の後半である。天下周知のことをわざわざ問うたから、趙州も周知の大根で答えたのだ、という解釈を圜悟は退ける。趙州の家にはおのずから天に通じる道があるとし、九峰が延寿に会ったかと問われて山前の麦は熟したかと答えた話を対に挙げる。どちらも柄を挿す穴のない鉄鎚のように、取りつく島がない。知る者はよく噛んで味わい、知らぬ者は棗を丸呑みするという。一見無関係な答えに込められた味わいは、急いで呑み込まず、自分の経験でよく噛みしめてこそ分かるのである。即答できない問いは、急がず噛みしめればよい。

この章句が説くこと

無孔鉄鎚九峰無事趙州吟味公案

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