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碧巌録 / 第一則

武帝甞披袈裟。自講放光般若經。感得天花亂墜地變黃金。辨道奉佛。誥詔天下。起寺度僧。依教修行。人謂之佛心天子。達磨初見武帝。帝問。朕起寺度僧。有何功德。磨云。無功德。早是惡水驀頭澆。若透得這箇無功德話。許爾親見達磨。且道。起寺度僧。為什麼都無功德。此意在什麼處。帝與婁約法師傅大士昭明太子。持論真俗二諦。據教中說。真諦以明非有。俗諦以明非無。真俗不二。即是聖諦第一義。此是教家極妙窮玄處。帝便拈此極則處。問達磨。如何是聖諦第一義。磨云。廓然無聖。天下衲僧跳不出。

新字:武帝甞披袈裟。自講放光般若経。感得天花乱墜地変黄金。弁道奉仏。誥詔天下。起寺度僧。依教修行。人謂之仏心天子。達磨初見武帝。帝問。朕起寺度僧。有何功徳。磨云。無功徳。早是悪水驀頭澆。若透得這箇無功徳話。許爾親見達磨。且道。起寺度僧。為什麼都無功徳。此意在什麼処。帝与婁約法師傅大士昭明太子。持論真俗二諦。拠教中説。真諦以明非有。俗諦以明非無。真俗不二。即是聖諦第一義。此是教家極妙窮玄処。帝便拈此極則処。問達磨。如何是聖諦第一義。磨云。廓然無聖。天下衲僧跳不出。

書き下し

武帝嘗て袈裟を披て、自ら放光般若経を講ず。天花乱墜し、地黄金に変ずることを感得す。道を弁じ仏を奉じ、天下に誥詔して、寺を起て僧を度し、教に依つて修行す。人之を仏心天子と謂ふ。達磨初めて武帝に見ゆ。帝問ふ、「朕寺を起て僧を度す、何の功徳か有る」。磨云く、「無功徳」。早く是れ悪水驀頭に澆ぐ。若し這箇の無功徳の話を透得せば、爾に親しく達磨を見ることを許さん。且く道へ、寺を起て僧を度す、什麼と為てか都て功徳無き。此の意什麼の処にか在る。帝、婁約法師・傅大士・昭明太子と真俗二諦を持論す。教中の説に拠るに、真諦は以て非有を明らめ、俗諦は以て非無を明らむ。真俗不二、即ち是れ聖諦第一義なり。此れは是れ教家の極妙窮玄の処なり。帝便ち此の極則の処を拈じて、達磨に問ふ、「如何なるか是れ聖諦第一義」。磨云く、「廓然無聖」。天下の衲僧跳び出でず。

現代語訳

武帝はかつて袈裟を着て、自ら放光般若経を講じた。すると天から花が乱れ降り、大地が黄金に変じるという感応を得た。仏道を論じ仏を奉じ、天下に詔を下して寺を建て僧を得度させ、教えに従って修行した。人々は帝を仏心天子と呼んだ。達磨が初めて武帝に会ったとき、帝は問うた。「朕は寺を建て僧を得度させてきた。どんな功徳があるか」。達磨は言った。「功徳などない」。これはもう頭から汚れ水を浴びせかけたようなものである。もしこの「無功徳」の話を透過できたなら、お前が親しく達磨に会ったと認めよう。さあ言ってみよ、寺を建て僧を得度させて、なぜまったく功徳がないのか。その意はどこにあるのか。帝は婁約法師・傅大士・昭明太子と真俗二諦を論じていた。教えの説によれば、真諦は有に非ざることを明らかにし、俗諦は無に非ざることを明らかにする。真と俗が二つでないこと、これこそ聖諦第一義である。これは教学者の極めて妙なる奥義である。帝はこの究極の所を持ち出して達磨に問うた。「聖諦第一義とは何か」。達磨は言った。「廓然無聖」。天下の禅僧も、ここから跳び出すことはできない。

解説

圜悟の評唱は、武帝がいかに熱心な仏教保護者であったかを語り、本則の前段にあたる「無功徳」の問答を紹介する。寺を建て僧を育てた帝が功徳を問うと、達磨は「無功徳」と言い切った。圜悟はこれを頭から汚れ水を浴びせたようなものだと評し、なぜ功徳がないのかを読者に問い返す。さらに帝が真俗二諦の教学を極めたうえで「聖諦第一義」を問うたことを説明し、達磨の「廓然無聖」はその極みをも断ち切る一句だと示す。善行の見返りを数える心そのものが道を塞ぐ、という指摘は、成果や評価を求めて働く現代人にもそのまま突き刺さる。

この章句が説くこと

無功徳武帝真俗二諦功徳分別執着

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