六祖壇経 / 疑問品第三
師曰:『實無功德,勿疑先聖之言。武帝心邪,不知正法,造寺度僧,布施設齋,名為求福,不可將福便為功德。功德在法身中,不在修福。』 師又曰:『見性是功,平等是德;念念無滯,常見本性真實妙用,名為功德。內心謙下是功,外行於禮是德;自性建立萬法是功,心體離念是德;不離自性是功,應用無染是德;若覓功德法身,但依此作,是真功德。若修功德之人,心即不輕,常行普敬。心常輕人,吾我不斷,即自無功;自性虛妄不實,即自無德;為吾我自大,常輕一切故。善知識!念念無間是功,心行平直是德;自修性是功,自修身是德。善知識!功德須自性內見,不是布施供養之所求也。是以福德與功德別,武帝不識真理,非我祖師有過。』
新字:師曰:『実無功徳,勿疑先聖之言。武帝心邪,不知正法,造寺度僧,布施設斎,名為求福,不可将福便為功徳。功徳在法身中,不在修福。』 師又曰:『見性是功,平等是徳;念念無滞,常見本性真実妙用,名為功徳。内心謙下是功,外行於礼是徳;自性建立万法是功,心体離念是徳;不離自性是功,応用無染是徳;若覓功徳法身,但依此作,是真功徳。若修功徳之人,心即不軽,常行普敬。心常軽人,吾我不断,即自無功;自性虚妄不実,即自無徳;為吾我自大,常軽一切故。善知識!念念無間是功,心行平直是徳;自修性是功,自修身是徳。善知識!功徳須自性内見,不是布施供養之所求也。是以福徳与功徳別,武帝不識真理,非我祖師有過。』
書き下し
師曰く、『實に功德無し。先聖の言を疑ふこと勿れ。武帝は心邪にして、正法を知らず。寺を造り僧を度し、布施し齋を設くるは、名づけて福を求むと為す。福を將て便ち功德と為すべからず。功德は法身の中に在り、福を修むるに在らず』と。師又た曰く、『性を見るは是れ功、平等なるは是れ德。念念に滯り無く、常に本性の真實の妙用を見る、名づけて功德と為す。內心謙下なるは是れ功、外に禮を行ずるは是れ德。自性の萬法を建立するは是れ功、心體の念を離るるは是れ德。自性を離れざるは是れ功、應用染むこと無きは是れ德。若し功德の法身を覓めば、但だ此れに依りて作せ、是れ真の功德なり。若し功德を修むる人は、心即ち輕んぜず、常に普敬を行ず。心常に人を輕んずれば、吾我斷ぜず、即ち自ら功無し。自性虛妄不實なれば、即ち自ら德無し。吾我自大にして、常に一切を輕んずるが為の故なり。善知識よ、念念に間無きは是れ功、心行平直なるは是れ德。自ら性を修むるは是れ功、自ら身を修むるは是れ德。善知識よ、功德は須らく自性の內に見るべし、布施供養の求むる所に是らざるなり。是を以て福德と功德とは別なり。武帝は真理を識らず。我が祖師の過ち有るに非ず』と。
現代語訳
慧能は言った。「本当に功徳はない。先聖の言葉を疑ってはならない。武帝は心が邪で正しい法を知らなかった。寺を造り僧を出家させ、布施し斎を設けるのは、福を求めるという。福をそのまま功徳としてはならない。功徳は法身の中にあり、福を修めることにはない」。さらに言った。「本性を見るのが功、平等であるのが徳。思いの一つ一つが滞らず、常に本性の真実のはたらきを見る、これを功徳という。内心がへりくだるのが功、外に礼を行うのが徳。自性が万法を打ち立てるのが功、心のもとが思いを離れるのが徳。自性を離れないのが功、はたらかせても染まらないのが徳。もし功徳の法身を求めるなら、ただこれに従って行え、それが真の功徳である。功徳を修める人は、心が人を軽んじず、常にあまねく敬う。心が常に人を軽んじれば、我という思いが断てず、そこに功はない。自性が虚妄で不実なら、そこに徳はない。我を大きくして、常に一切を軽んじるからである。善知識よ、思いの一つ一つに切れ目がないのが功、心の行いがまっすぐなのが徳。自ら本性を修めるのが功、自ら身を修めるのが徳。善知識よ、功徳は自性の中に見るべきもので、布施や供養で求められるものではない。だから福徳と功徳は別である。武帝は真理を知らなかった。祖師(達磨)に過ちがあったのではない」。