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葉隠 / 聞書第十一

北條安房守殿へ、大猷院樣より、軍法御稽古成さるべき由に付、士鑑用法一冊書立て差上げられ、御師匠に相成られ、數多弟子を取立てられ候。御老中井上河内守殿見舞ひ、「弟子は一子を育つる如く大切にて、器量の者には大事を相傳の事に候へば、弟子は大恩を受け候事に候。其の弟子の大事相傳の事を御忘れこれ無きや。」と申され候へば、「大切の傳授など仕り候へば、尤も忘るゝ事はこれ無く候。」と返答に付、「さらば公方樣の御師匠は罷成らず候。下として忠節を竭し、其の忠節を忘れざる時は、其の報なき時に仇を含みて、大亂を起す基にて候。」と申され候處、言下に得心の由に付、「然らば御師匠苦しからず。」と申され候由。

新字:北条安房守殿へ、大猷院様より、軍法御稽古成さるべき由に付、士鑑用法一冊書立て差上げられ、御師匠に相成られ、数多弟子を取立てられ候。御老中井上河内守殿見舞ひ、「弟子は一子を育つる如く大切にて、器量の者には大事を相伝の事に候へば、弟子は大恩を受け候事に候。其の弟子の大事相伝の事を御忘れこれ無きや。」と申され候へば、「大切の伝授など仕り候へば、尤も忘るゝ事はこれ無く候。」と返答に付、「さらば公方様の御師匠は罷成らず候。下として忠節を竭し、其の忠節を忘れざる時は、其の報なき時に仇を含みて、大乱を起す基にて候。」と申され候処、言下に得心の由に付、「然らば御師匠苦しからず。」と申され候由。

書き下し

北条安房守(ほうじょうあわのかみ)殿へ、大猷院(たいゆういん)様より、軍法御稽古成さるべき由に付、士鑑用法(しかんようほう)一冊書き立て差し上げられ、御師匠に相成られ、数多(あまた)弟子を取り立てられ候。御老中井上河内守(いのうえかわちのかみ)殿見舞い、「弟子は一子を育つる如く大切にて、器量の者には大事を相伝(そうでん)の事に候えば、弟子は大恩を受け候事に候。その弟子の大事相伝の事を御忘れこれ無きや。」と申され候えば、「大切の伝授など仕り候えば、尤も忘るる事はこれ無く候。」と返答に付、「さらば公方(くぼう)様の御師匠は罷(まか)り成らず候。下として忠節を竭(つく)し、その忠節を忘れざる時は、その報なき時に仇(あだ)を含みて、大乱を起す基にて候。」と申され候ところ、言下に得心の由に付、「然らば御師匠苦しからず。」と申され候由。

現代語訳

北条安房守殿は、三代将軍家光公から軍法をお稽古なさりたいとの意向を受け、『士鑑用法』一冊を書き上げて献上し、その師匠となって、多くの弟子を育てておられた。老中の井上河内守殿が訪ねて言った。「弟子はわが子を育てるように大切なもので、器量ある者には奥義まで相伝するのだから、弟子は大恩を受けることになる。あなたはその、弟子に大事を授けたという意識をお忘れではないか」。すると安房守が「大切な伝授をしたのですから、もちろん忘れることはありません」と答えたので、河内守は言った。「それならば、公方様(将軍)の師匠になどおなりになってはいけません。臣下として忠節を尽くし、その忠節を相手が忘れずにいると、その恩に報いてもらえないとき、恨みを抱き、やがて大乱を起こす元になるのです」。安房守はこの言葉に即座に納得した。それを見て河内守は「それならば師匠をお務めになってもかまいません」と言われたという。

解説

将軍の師匠となることの危うさを、老中井上河内守が諭した一条です。師は弟子に恩を授けたと意識しがちですが、相手が将軍となれば話は別です。臣下が「自分は忠節を尽くし、恩を与えた」という自覚を持ち続けると、その恩に報いられないと感じたとき恨みへと転じ、大乱の火種にもなりかねない――河内守はそう警告します。要は、上に立つ相手へ何かを施したなら、施した意識そのものを手放せという教えです。安房守が即座に納得し「それなら師匠になってよい」と許された点に、見返りを求めぬ心の重要さが表れています。現代でも、目上や組織に貢献したという意識に縛られると不満や軋轢を生む、という人間関係の機微として通じます。

この章句が説くこと

葉隠北条安房守井上河内守徳川家光師弟忠節

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